Sink

言わない同士

 と稲葉江が相思相愛の仲となったのは秋のことだ。
 ふたりの関係性にやきもきしていた本丸の刀たちはあれこれと策を巡らせ、稲葉江との二人を近場で開催された秋祭りに出掛けさせた。季節外れの花火とふたりきりの空間が焦ったい彼らの背中を押してくれたようで、それ以来本丸公認の仲である。
 しかし、それから半年が経った今でも、彼らは手を繋ぐ以上のスキンシップを取らなかった。
 早いうちに審神者の任に就いた彼女は年齢の割に精神的に幼い一面があり、色恋に疎い。そして稲葉江は見ての通りの堅物である。ゆったりとした歩みどころか停滞を続ける彼らにもどかしい思いをしていたのは、ふたりを見守る周囲のみではなかった。

 当人であるの目下の悩みは、恋刀のことである。
 歴史修正主義者との戦時中にそんな色ボケしたことを言っている場合ではないのは理解しているが、他の年頃の娘らしいことは全て奪われてきたのだ。それくらい許してくれと、誰に咎められたわけでもないのに彼女は胸の内で言い訳をした。
 稲葉江は口数が少なく、その言葉すら最低限の意味以外を持たないものばかりだ。冗談の類も口にしない彼がロマンチックに愛を囁いてくれるはずもなく、は彼からの恋愛感情を疑わしく思っていた。
 自惚れでなければ、彼の視線や言動には慈愛が見えた。不器用ながらも彼なりに思いやってくれているのだろうと察せる。
 が小豆長光とお菓子作りに挑戦した日は甘味が苦手なりに完食してくれたし、小言のような口調ではあるがこまめに体調を気遣ってくれる。大事にされているのは間違いないが、の体感上、それは父性めいていた。

 そんな悩みを抱えていた折、の本丸に任務報酬として富田江が顕現した。以前より稲葉江の口から存在を聞かされていた、江の双璧の片割れである。人の身に慣れるまでの当面の間、当然のように富田江の世話は稲葉江がすることになった。
 富田江の前で稲葉江はよく喋った。とはいえそれはこれまでの彼に比べての話であり、饒舌には程遠い。それでもは、自分と稲葉江がこれまで交わした言葉の数をすべて合わせても、この一月で二振りが交わした会話の量に届かないのではないか? とすら思うほどであった。
 ややあって富田江の人となりが分かってくると、それにも納得がいった。稲葉江と彼が元来強い縁を持っていたことも一因であったが、それを差し引いても富田江は話のしやすい刀であった。
 彼は今代の主であるに対しても非常に親切で、よく話に耳を傾けてくれる。そんな彼にが心を開くのには、そう時間がかからなかった。稲葉江を最もよく知る刃物じんぶつであるから、彼のことを相談する上でこれ以上の適任者もいない。
 富田江にかいつまんで経緯を話すと、彼は当然のように稲葉江との関係を知っていた。
 ふたりが結ばれて以降人の身を得た刀たちには、特に彼らの関係性を伝えてはいない。知っている者は古参の刀に聞かされたか、勘が鋭く様子を見て察したかだろう。
 富田江は聞き上手な上に聡い刀だ。そのどちらもがあり得たが、仮にも恋刀の片割れがどういった流れで彼がふたりの仲を知ったか把握していないことに、は稲葉江とのコミュニケーション不足を感じ、僅かに胸を痛めた。
「あんまり恋人っぽいことしてこなかったから……稲葉って私のこと本当に好きなのかな? って不安になっちゃって。好かれてるとは思うんだけど、刀剣男士って基本的にみんな私に親切だから……」
「そうだね。君の気持ちが伝わっているのだろう、慕われているのが新参の私でもよくわかるよ。……私も同じだからね」
 富田江がお手本のように美しく、誰もが好感を覚えるであろう笑みを浮かべた。彼女はまずとしての人柄を褒められ、照れ臭さから萎縮する。
「君は稲葉の愛情表現が物足りないと感じているんだね」
「うっ……わがままかな?」
「それは君の気持ちなのだから、他人に測れるものではないよ。稲葉の恋人は他でもない君なのだから」
 不器用ながらも親切な恋人を持ちながら不満を抱くことへの後ろめたさを感じていたは、富田江の言葉に気持ちが楽になるのを感じた。稲葉江と、ふたりの話であるのに、彼女はどうしても他人にどう見られるかを意識してしまっていた。
「まあ確かに、あいつは言葉足らずなところがあるから。誤解は受けやすいだろうね」
 富田江は続けて、思案するように顎に手を添える。に対する稲葉江の言動を思い出しているのだろう。勢いで相談してみたものの、富田江はが思っていた以上に親身になって話を聞き、相談に乗ってくれた。
 日頃から江の刀や加賀ゆかりの刀剣たちに囲まれている姿をよく見るが、彼のこういった姿勢が人を集めるのだろう。こんなことを言っては何だが、どこもかしこも稲葉江と正反対の男だとは思った。
「言葉にし辛いのは承知の上だけれど、やはり口で伝えるのが一番早いんじゃないかな。君が稲葉にそう感じているように、稲葉も君への気持ちが届いていないだなんて、考えもしていないのかもしれないね」
「なるほど……。確かにそうかも」
 富田江の意見は尤もだが、とはいえ、言葉にしようにも明け透けな言い方は憚られた。未だ色恋に関して未熟な彼女は、素直に恋人に甘えることに恥じらいを捨てきれない。
 加えて、経験が浅い癖に年相応に耳年増な彼女は余計な知識ばかり付けている。「私のこと好き?」と聞かれると男性は面倒に感じるという意見を聞いたことがあり、それを憂慮していた。稲葉江が女に好意を問いただされて、粋な返事を返せるとも思えない。
 けれどこのままでは待てど暮らせど変化が起こるはずがないというのは明らかで、状況を変えたいなら彼女自ら行動を起こすほかなかった。しくじったとして命を失うわけでもない。幾つもの死線を超えた彼女はそれなりに度胸をつけていたので、富田江のアドバイスに従ってみることにした。

 翌日は丁度、篭手切江主催定期れっすんの日であった。本丸の一番広い板張りの部屋は予約制で好きに使用することができ、毎週この日、この時間は篭手切江が抑えている。は篭手切江の了承を得て、れっすんを見学していた。
 に用意できるのは本丸行事の小さなすていじだけだが、篭手切江はそれだけでも十分だと言って日々熱心に取り組んでいた。彼の熱意にあてられて、他のめんばあも着々と歌やダンスの技能を伸ばしている。
 篭手切江の合図でその日のれっすんが終わると、稲葉江との関係をよく知る江の面々は気を遣ってふたりを残して部屋を出た。
 部屋を出る前にと目があった富田江は、ぱちりとウインクを投げた。それを見た彼女は、少女漫画さながら閉じた瞳から星が跳んだように錯覚する。彼なりのエールだろうがそれがあまりに見事だったので、は「もしかしてファンサのれっすんとかもしてるのかな」と思った。
「それで、どうした」
「えっ?」
「わざわざ稽古を見に来たからには我に用があったのではないのか」
 今一度改めて問われ、は言葉に詰まった。
 雑談の延長で好意を確かめ自分の希望を伝えられればいいと考えていたが、自然な流れでその話題に持ち込めるほどの話術を彼女は持ち合わせていない。かといって単刀直入に訊ねれば、何かあったのかと困惑させることだろう。
 がどう切り出すべきか考えこんでいると、稲葉江が「……思い悩むことでもあるのか」と心配げに彼女の顔を覗き込んだ。
 表情の変化は僅かなもので、他人からすればちっとも変らぬ様子に見えただろう。は稲葉江のこういった一見不明瞭な優しさが好きだった。
「んーん、……ちょっと寂しくなって」
「寂しい?」
 今まさに会っているのに何を言っているのか? と言わんばかりに稲葉江は首を傾げた。
 富田江の指摘通り、彼はの胸の内などちっとも理解していないようだ。彼女にとっては、毎日同じ屋根の下で寝起きし顔を合わせていながらも、恋人らしさを感じられないことこそがより寂しさを搔き立てられた。
 はほかに人目がないのをいいことに、勇気を出して稲葉江の胸に寄りかかってみた。
 稲葉江の引き締まった体は突然に体重を預けられても、危なげなくそれを受け止める。インナー越しの稲葉江の胸に額を当てると、心臓の鼓動が響いた。
 体を動かしたためか、薄っすらと香る汗の匂いは不思議と不快感を感じるどころか距離の近さと存在をより強調し、の心を高揚させる。心拍数が上がって胸が締め付けられるように苦しい。この男が好きだと、の全身が強く訴えていた。
 けれど稲葉江はそんなの肩を掴むと、自らの身体から引きはがした。
「汗をかいている。触れたいならば身を清めてからだ」
 彼女が稲葉江の顔を見上げると、彼は罰が悪そうな顔をした。明らかな拒絶に、の表情が悲しみに染まる。
「ごめん、変なこと言って」
「おい」
「私仕事あるから、じゃあね、おつかれさま」
 は肩に触れた稲葉江の手を振り払うと、足早にその場を去った。
 稲葉江が本気で追えば捉えるなど容易いことだろう。けれどしばらく走ったが振り返ってもその姿はなく、自分で逃げておきながら落胆する己の身勝手ぶりに自己嫌悪する。
 やはり稲葉江の好意は自分が彼に向けるものと別種なのだろうか。勇気を出したスキンシップが受け入れられなかったことへのショックは想像以上に大きく、は深いため息を吐いた。

 その後、と稲葉江は顔を合わせることもなく夜が更けていった。
 彼女が自室で気を紛らわせようとタブレットで電子コミックを読んでいると、誰かが部屋を訪ねた。
 こんな時間に一体誰だろう? と思いながらは寝転がっていたベッドから体を起こす。はじまりの一振りが修行の旅から帰還して以来、修行の申し出をする刀剣がちらほらと現れるようになったので、今夜も誰かがやってきたのかもしれないと考えたが、その予想は大きく外れた。
「我だ」
 の胸に重石のように乗っかった感情の原因である彼が訪ねてくるとは思わず、は狼狽えた。
 彼女は一呼吸置いてから平静を繕い、襖を開ける。いつもはきっちりと整えられた髪を流した、寝間着の浴衣姿の稲葉江がそこにいた。
「い、稲葉。どうしたの、こんな夜に」
「昼間は話の途中だっただろう」
 まさか日中のあの話をわざわざ部屋にやってきてまで蒸し返されると思わず、は困惑する。これ以上彼との感情に温度差を感じて傷つくことは避けたかった。
 それでも部屋を訪ねてくれたことを素直に喜んでしまう自分もいて、彼女はいかにこの男に惚れこんでいるかを自覚した。
「ああ、あの話。ごめん、変なこと言っちゃったけど気にしないで」
 まるで何でもないことのようにあしらおうとして、は自然と早口になった。適当に誤魔化して忘れてもらおうという心算だったが、追い返そうとした彼女の手を稲葉江が握る。
「上がらせてもらうぞ」
 真っ向からそう問われれば、彼女は頷くしかなかった。
 稲葉江は掴んだ手を離さず、それどころか動きやすい形に握り直す。そのままふたりは横並びでクッションの上に腰を下ろした。
 それからしばらく、沈黙が続いた。稲葉江も手を握ったまま黙り込んでおり、ただ時間だけが流れていく。奇妙な空気の中、やっと静寂を破ったのは稲葉江の声だった。
「昼間は」
 と違い、稲葉江は沈黙を苦痛に感じない性分だ。放っておけば、何時間でも無言を貫くような男である。彼から話を切り出されると思わず、は驚いた。
「新しい曲の振り入れをしていた」
「あっ、れっすんの話ね」
 稲葉江との会話は主にが主導権を握っていたので、彼が世間話をしているのを聞いたのは初めてだった。
 確かに近頃の篭手切江はいつも楽し気で生き生きとしている。かと思えば一人で何か考えこんでいる姿も見られたが、恐らく新曲の振り付けなりフォーメーションなりを考えていたのだろうと彼女は納得した。
 富田江が加わりめんばあが八振りになったことへの喜びが、最近の彼からは溢れ出している。人の身を得て楽しそうにしている刀剣を見るのが好きな彼女にとっても、それは喜ばしいことだ。
 けれど今この瞬間、稲葉江との会話においてそれ以上話を盛り上げる術を彼女は持たない。が「そうなんだ」と返すと、そこで会話が途切れた。
 その間も手は繋がれたままで、居心地の悪さからじっとりと手汗をかく。手を解こうにも、痛みはないまでも握る力は結構な強さだ。
 が顔を上げると、稲葉江と目があった。沈黙が耐え難く救いを求めるように何もない床を凝視していた彼女は、まさかずっと稲葉江はこちらを見ていたのだろうか? と驚く。
 絡まった視線が合図のように、稲葉江はそっと手を解いた。かと思うと代わりに腕がの肩に回り、彼女の身を抱き寄せる。昼間がしたように、彼女の額が稲葉江の胸にぶつかった。
 抱きしめているというよりは、体重を稲葉江に預けた彼女の肩を抱いているだけの、奇妙に距離を残した触れ合いだ。稲葉江の顔が見えなくなって、の胸が騒ぎ始める。
「え……?」
「こうしたいのではなかったのか」
 困惑した声を漏らすに、稲葉江こそ不思議がっていた。
 まさか、汗をかいているというのは距離を取るための方便ではなく本意だったとでもいうのだろうか。それでやり直しをさせるために、わざわざ夜に部屋を訪ねたと?
 は顔に熱が集まるのを感じて、寝間着の浴衣を掴んだ。
 日中香った汗の匂いの代わりに、柔軟剤とやや開いた胸元から彼の肌の匂いがする。彼女が香りを嗅ぐとすんと鼻が鳴ったが、稲葉江は気に留めなかった。
 ただ抱き寄せられているだけでは幸福感でいっぱいになって、何故だか切なくも感じ、目頭が熱くなる。満たされることが恐ろしいとでもいうのか、言葉にし難い感情が彼女を支配した。
 しばらくの間ふたりはずっとそうしていたが、その時間は稲葉江が体を引いたことで終わりを迎えた。
「……もう遅いな。そろそろ寝ろ」
 稲葉江が部屋へやってきたのも日付が変わる直前だ。彼の言葉は尤もであったが、離れ難いは落胆した様子を隠さないまま「うん」と素直に頷いた。
 稲葉江は何か言いたげにしばらく彼女の顔を見て、それから立ち上がる。
 彼が部屋を出る直前、はつい稲葉江を呼び止めた。稲葉江は振り返り、彼女の言葉を待つ。
「また来てくれる……?」
 不安げな色を宿したの問いかけに、稲葉は短く「ああ」とだけ答える。それから「よく休め」と言って、部屋を出て行った。
 はその夜、なかなか寝付くことが出来なかった。ふたりきりで過ごした時間の心地いい緊張感が忘れられず、全身が高揚している。稲葉江の匂いと肌の質感、抱かれた肩に回った腕の重みや体温を反芻すると、心臓が甘く痺れた。
 五感全てを彼への恋心に支配され、どうにかなってしまいそうだ。彼女はそんな高ぶりを、宝物のように胸の内に仕舞った。

 二日後、稲葉江は遠征任務のため旅立った。
 元から決まっていた予定だが、ふたりにとってはこれまでないほどの濃密な時間を過ごしたあとだ。遠征部隊を見送るは、いつもよりも寂しさが身に染みた。
 人は得ただけ欲深くなるもので、は早くも彼の体温を恋しく思い始めている。あの夜稲葉江が触れた部分に手を置いて目を閉じると、その時の感覚が蘇る気がした。
 彼に触れたい。今度はもっと強く抱きしめられたい。幼い欲望の炎が、彼女の胸に灯り始めたばかりであった。

 稲葉江たちが遠征に出て数日経った夜、なにやら居間に刀たちが集まっていたためが顔を出すと、彼らは映像配信サイトで人気の海外ドラマを見ていた。日本刀が海外ドラマを見るなんて面白いな、と思いながらもその輪に混ざる。
 そのドラマでは主人公である弁護士の男性の波瀾万丈な日々が描かれていた。途中から見始めたもののテンポが良く、登場人物が増えるごとに誰かが「コイツは主人公の上司でな、まぁ悪い男だ」と解説を入れてくれるので、彼女も楽しむことが出来た。
 しばらく観ていると、主人公の恋人候補らしい女性が登場した。ブロンドで胸の大きなお手本のような白人美女である。画面の中の二人は酒を飲みかわし、ウィットに富んだトークで距離を縮め、ごく自然にベッドへと入った。
 ドラマを鑑賞している刀の中には、ちらほら短刀の姿があった。こんな濡れ場を子供に見せていいものだろうかとは思ったが、見た目と精神年齢は幼いものの実際は数百歳である。彼らからすれば、の方がずっとお子様だ。
 やたら長いベッドシーンはシーツの下で何が行われているのか、具体的なことは何もわからないなりに湿度の高い場面が続いた。裸の男女が抱き合い、もぞもぞ身体を動かしては愛を囁く。ムーディーな音楽をバックに唇を重ねる音が響き、それに誰かが夜食の煎餅を食い割る音が重なっていた。
「あたしのこと、愛してる?」
「ああ、誰よりも」
「嬉しい」
「君は僕の宝物さ」
 吹き替え声優による言葉はあまりにも芝居がかっていて、の耳には現実離れして聞こえた。少女漫画を読んで主人公に感情移入し、ハラハラドキドキの展開に胸を高鳴らせたことはあったが、その時のような気持ちは芽生えない。
 ルールの知らないスポーツを見ている様な気持ちだった。生娘である彼女は性行為の手順もフィクションで得た知識しか知らず、なんかこういうもんか、と思った。
 きりのいいところまで見終えると、その日の上映会は終いとなった。

 はひとり自室でベッドに入り、眠りに就く。その晩、夢の中で稲葉江とはまぐわっていた。
 ドラマの濡れ場が衝撃的で深層心理に刻み込まれていたのか、稲葉江の体温を知り欲深くなった彼女の本能が形となったのか。ドラマと同じく淫夢の中でも行為は曖昧であったが、それでもはっきりと性行為だと認識することが出来た。
 現実の稲葉江が彼女に一度も見せたことのない顔で「愛している」と囁く。非現実的ながら声だけは妙にリアルで、それが目を覚ました後も、彼女の鼓膜にこびりついて離れなかった。
 はベッドから飛び起きると、「稲葉はそんなこと言わない!」と一人で大声を上げた。
 枕元の目覚まし時計を見ると、まだ起き出すには随分早い時間だ。二度寝しようにもこの状態で寝付けるはずもなく、彼女は諦めてベッドを出た。

 話し相手を求め畑に向かうと、そこには彼女の期待通りに桑名江がいた。彼は日課である農作物の状態確認をしている。の姿に気が付くと、大きく手を振った。
「あれ、主。早起きだね。どうしたの?」
「んー、なんか目覚めちゃって」
「そうなんだ。もしかして、稲葉さんが帰ってくるから楽しみで、かな?」
「えっ!?」
 突然稲葉江の名前を出され、は大袈裟に驚いた。
 江の面々が彼らの仲を暖かく見守り、時に揶揄ってくるのはいつものことだ。桑名江もそんなにオーバーな反応を返されると思っていなかったのか、「あれ、違ったっけ?」と不思議そうにしている。
 確かにその日は、稲葉江が編制された部隊が帰還する予定だった。簡単な調査任務だから、遅延することもまずないだろう。
 夢の衝撃ですっかりそんなことが頭から抜けていたは、あまりのタイミングの悪さに顔を青くした。いつもの彼女なら、照れくさそうに恥じらいながらはにかむというのに。様子のおかしい彼女に桑名江は首を傾げた。

 結局、朝食を食べる間も彼女は心ここにあらずだった。
 箸からおかずを取り落とし、味噌汁を溢しかけ、隣に座っていた小狐丸に「ぬしさま、お加減が優れないのですか」と心配されてしまう始末だ。
 食事を無理に詰め込んで仕事に取り組めば、働いている間は気が紛れた。
 けれど昼過ぎ、遠征部隊の帰還を知らせる音と共に彼女の心は途端に落ち着きを失くす。稲葉江も戻っているのだろう。ややあって遠征部隊の部隊長がを訪ね、簡易的な報告を行った。
 はそれを聞きながら涼しい顔をしていたが、内心気が気でない。稲葉江と顔を合わせることになった時、どのような顔をすればいいのかという考えに囚われてしまっていた。あれほど恋しかった相手が妙な夢ひとつで遠ざけたくなるだなんて、恋に溺れた少女の心は不思議なものであった。

 遠征報告の後、は少し息抜きでもしようと部屋を出た。
 すると今まさに彼女の元へ向かおうとしていたのか、稲葉江と執務室前の廊下で鉢合わせる。まさかこんなすぐに会うことになるとは想定もしていなかった彼女は、過剰な大声を出して跳び上がった。
「わぁ!!」
「……驚きすぎだ」
 彼女の反応に、稲葉江は失礼だと言わんばかりに顔を険しくした。
「ご、ごめん。びっくりして。お風呂上がり?」
「ああ」
 遠征から戻った後、すぐに湯浴みをして身を清めたらしい。稲葉江は私服の着物姿で、乾かされたばかりの髪は波を描いていた。戦装束で髪を整えた姿とは大分印象が異なっている。
 はその姿を見て、稲葉江に抱き寄せられたあの夜と淫夢の中の彼を想起する。芋づる式に夢の内容を思い出したものだから、それが目の前の彼と重なり、彼女は赤面した。
「ご、ごめん! 私用事あるから行くね」
「……ん」
「じゃっ!」
 稲葉江は何か用があってわざわざこんなところまで来たのだろう。でなければ、湯上りに生活区域から少し離れた執務室前になんて来るはずがない。
 勝手に如何わしい夢を見ておいて逃げ出すだなんて、遠征帰りの恋刀に対しあまりにもひどい仕打ちだ。それでも彼女は自らの中に渦巻く気まずさに耐えきれず、彼の言葉を遮って早足でその場を立ち去った。

 この状況で彼と相対するのが耐え難いは、夢の記憶が薄れるまで稲葉江を避け続けた。彼は当然、の失礼かつ不自然な態度を訝しんだが、だからといって無理に問いただすこともしなかった。
 そうこうしているうちに時は流れ、今度は夢の内容とは無関係に稲葉江との仲がぎくしゃくし始める。気が付くと、が彼を避け始めてから八日が経っていた。
 はこの事態を重く受け止めたが、けれど今更「エッチな夢見て気まずくて避けててごめんね!」なんて正直に明かせるはずがない。滅多なことでは彼女に触れてこない清廉潔白な彼に対して、自分はなんて情けのない痴女だろうと自らを詰った。

「おや、どうしたのかな。浮かない顔だ」
「富田か……」
 稲葉江から逃げ回っていたところ、いつの間にか茶室のある離れまで来ていたらしい。日頃滅多にこない場所でがきょろきょろしていると、富田江がいつも通りの穏やかな笑みを浮かべ声をかけた。
「よかったらお茶でもどうかな。茶菓子を買ってきたところなんだ」
「お菓子? いいの?」
 現金なもので、甘いものに目がない彼女は茶菓子の言葉にころっと機嫌を良くし、富田江の誘いに乗ることにした。
 きちんとした茶道の稽古を付けてもらったわけでもない彼女の知識は付け焼刃で、作法は拙いものだったが、「こういうのはもてなす心が大事だから」と富田江は無作法を目くじら立てて咎めたりはしない。彼の纏う柔らかなオーラと包容力が緊張を次第に解きほぐし、茶室の香りがの心を穏やかにした。
「実は最近、稲葉と顔を合わせるのが気まずくて」
「そうみたいだね」
「えっ、やっぱりわかる?」
「そりゃ、君と稲葉を見ていれば気付くさ」
 茶を飲み終えた後、が胸の内を明かすと、富田江が苦笑する。やはりの態度の変化は、他から見ても明らかなようだ。他の刀剣男士からも気遣われているように感じたのは、気のせいではなかったのかもしれない。本丸の主でありながら輪を乱すような態度を取っていたことを、彼女は改めて反省した。
「それで、訳を聞いてもいいのかな?」
「……うー、実は遠征中にちょっと、稲葉が出てくる夢を見て……その、恥ずかしくなっちゃって」
 まさかこの綺麗な顔を相手に「あなたの相方とエッチなことする夢を見ました」なんて言えず、は濁して話した。
 富田江はが語りたがらないことは追及せず、巧みに彼女から言葉を引き出す。気が付けば彼女が思い悩んでいた以上に、すらすらと口から言葉が飛び出していた。
「なるほど。避けているうちに顔を合わせられなくなった、ってわけか」
「情けないです」
 懺悔のようなの言葉を聞いても、富田江は咎めたり説教したりしない。だからこそは彼なら受け入れてくれるはずと信じて、胸の内を明かした。
 これが元の主譲りの交渉術が成せる技だろうか。その力を身を以て感じたは、富田江に畏怖の念を抱いた。
「私としてもこれ以上引き伸ばすのはあまり得策とは言えないかな」
「ですよねえ」
「手助けをしてもいいのだけれど……稲葉はそれを望まないだろうから」
 伏せられた睫毛は長く、所作ひとつとっても優雅だ。まさに江の刀の王子様だな、とは富田江の姿を眺めながら思った。
 すると富田江は何かに気が付いたかのように、蜂蜜色の目を動かす。
「おや、お迎えかな」
「?」
 富田江の唇が、何かを企むような楽しげな弧を描いている。彼が感じ取った気配が何なのか、はまだ分かっていなかった。
 ややあって障子に人影が映り、富田江が気軽な声色で「入って構わないよ」とその人物に声をかける。障子が開くと、そこには稲葉江が立っていた。
「いっ、稲葉!?」
「丁度よかった。お前の話をしていたんだ」
 何でもないことのようにそう言った富田江を、は信じられないと睨んだ。けれどの行動など稲葉江の眼中にないようで、いつもより棘のある声色で彼は「それに用がある。返してもらおう」と言う。
「言われなくても」
 仮にも主である自分をそれ呼ばわりするなよ、と不満を覚えつつも、は表情で富田江に救いを求めた。しかしそれは黙殺され、そんなやり取りを見た稲葉江の鋭い視線がの顔に突き刺さる。
 恐怖のあまりそちらに顔を向けられないの背筋を、冷たい汗が伝った。稲葉江の有無を言わせぬ態度がを立ち上がらせる。
「と、富田、ごめんね。ありがとう。お茶とお菓子、おいしかった」
「君の思うように事が運ぶことを願っているよ」
 稲葉江の後をついて茶室を出る前にが早口で礼を述べると、富田江はそう言って彼女を見送った。

 道中、稲葉江は無言のままだった。これはいつものことだが、その日の沈黙はいつにも増して重苦しい。どこかから聞こえる短刀たちが無邪気に駆け回る声が、別世界の事のようだ。はその空気に耐え切れず、明るい調子を装って声をかけた。
「ど、どこ向かってるの?」
「我の部屋だ」
「へ、へー…」
 素知らぬ顔で返事をしたが、内心は動揺しきっていた。用があって彼の部屋を訪ねたことはあるが、上がって長居したことなど一度もない。密室に連れ込んで一体何を言われるのだろうかと彼女は身震いした。
 稲葉江の歩幅に合わせ早足で歩いていると、あっという間に彼の部屋の前へと着いてしまう。は死刑宣告を待つ罪人のような気持ちになった。
「お、おじゃましまーす…」
 口を動かしていないとこの空気に圧迫されて息が出来なくなりそうだったので、場違いと分かっていてそう声に出した。
 稲葉江は部屋に入っても明かりを付けなかった。この時間は日当たりが悪いようで、薄暗く見通しが悪い。物が少ない部屋は寂しげで、それがかえって不気味さを増幅している。この部屋の景色が彼の感情を表しているように感じて、は背筋が冷たくなった。
「い、稲葉」
「……我から散々逃げ回ったかと思えば富田と茶会か」
「えっ?」
 稲葉江の声は地を這う程に低い。元々ご機嫌な男ではないにしろ、には常に彼なりに優しく接していた。甘い言葉を吐くわけではないが、その態度は雪の夜に無愛想ながらもマフラーを巻いてやるような、そんな暖かみがあった。
 それも今や見る影もなく、彼女はいかに日頃自分が甘やかされていたのかを痛感した。
「随分と侮られたものだ」
 百振りを超える刀剣男士をその手で喚び起こし束ねているが、その正体はただの小娘だ。怒りを露わにした稲葉江が恐ろしく、は震え上がり足が竦んだ。
 が盗み見た稲葉江の表情は険しさを増し、刀を振るう時とは別種の厳しさを纏っていた。悠長にそんなことを考えている場合ではないと分かっていても、はどうしてもその端正な顔を見ていると胸が高鳴ってしまう。
 自ら逃げ回っていたとはいえ、恋しくて堪らなかった男だ。は自分の浅ましさが嫌になった。
「我一人では不十分に見える。強欲な女だな」
 恋刀である稲葉江の前から姿を消しておきながら、よりにもよって彼の片割れと仲睦まじく茶を啜っていたことが相当頭にきているらしい。は『強欲』の言葉に反応し、ぴくっと肩を跳ねさせた。
 自分の内側に灯った火の様な欲望を見抜かれたような心地がして、震え上がる。もう彼女には、言い逃れのしようもなかった。
「ごめんなさい」
「言い訳も無しか」
「……」
 これ以上何を言えるというのだろう。が足元に視線を逃していると、稲葉江が距離を詰めた。が同じ幅だけ後退りすると、彼はさらに近づいてくる。あっという間には部屋の隅に追いやられ、背中にぴたりと壁をつけた。
 彼女が顔をあげると稲葉江の顔がすぐそこまで迫っていた。壁に手をつけ、覆い被さるように上体を丸めている。薄暗く距離が近いせいで、今や表情は窺い知れない。
 がきゅっと目を瞑ると、頬に稲葉江に手が触れた。声色と纏う雰囲気は容赦なく鋭いのに、その手つきだけは壊れ物に触れるかのように丁寧だ。それがの夢を思い起こさせ、彼女はまた胸が痛む。
 稲葉江が稀に彼女に触れる時、彼はいつも恐る恐るその手を伸ばす。それは女の体のか弱さを知って気遣うようでありながらも、別の意図がある様には感じていた。
 例えば、触れれば溶けてしまう雪や幻と消える夢のように。躊躇う様な指先は柔らかく擽ったい。そして今もまた、稲葉江の手つきには臆病さを感じていた。
「逃げない——か」
「に、逃げていいの?」
のがすとでも?」
 嘲笑混じりの声は、戦場で敵を斬り倒す時の荒々しい怒声によく似ていた。
 頬に触れていた稲葉江の手が顎を掬い上げるように移動し、の顔を上げさせる。彼は親指が彼女の下唇を柔らかく押し潰した。口を動かせば唾液がその指先に付いてしまいそうで、はものを言えなくなった。
「——今度こそ逃すわけにはいかんのだ、我は」
 自らに言い聞かせる様な、独り言染みた言葉だった。はされるがまま、稲葉江の顔を見上げている。
「横から攫われる前に印でもつけておけ……か」
 誰かの言葉を反芻する様に稲葉江が呟く。薄暗い部屋の中、ぎらぎらした稲葉江の鉛色の眼球が輝いて見えて、彼女はそれに目を奪われる。こんな時でも、彼女の胸は素直にドキリと高鳴った。
 唇に触れていた手が移動して頭を抱く。髪に稲葉江の指が差し込まれ頭皮を撫でると、の肌の下をぞくぞくと弱い電流が走るようだった。
 稲葉江はに顔を寄せたかと思うと、そのまま首筋にうずめた。
 彼のうねった髪が彼女の顔に触れて擽ったい。熱い吐息がかかって、は唾液を飲み込んだ。
 彼女が緊張から身体をこわばらせていると、白い首筋に歯が立てられる。噛み付かれたというよりは、皮膚の表面浅くに食い込むだけの、子犬の甘噛みのようであった。
 けれどそれだけで、の体にはつま先から脳天まで、ぞくぞくと震え上がる様な衝撃的な快楽が走った。脚の付け根がむずむずとして、腹が不思議と熱を持つ。稲葉江の一挙一動が、彼女の体の内側から知らない感覚を呼び覚ましていった。
 喉元を食い破られるかもしれないという恐怖と紙一重の状況が緊張感を煽る。かと思えば今度は似合わぬかわいらしいリップノイズを立てて、彼は首筋に吸い付いた。どこもかしこも鋼で出来て硬そうな彼の唇が柔らかいことを、は知ってしまったのだ。
 彼女は与えられる未知の感覚に流されてしまいそうになりながら、抵抗もできずされるがまま、稲葉江から熱を灯されるばかりだった。両手を握り合って耐えていると、膝から崩れ落ちそうになる。目の前の男に身を委ねたくなって、その先を知らないのに求めてしまいそうだった。
 ——恥ずかしい、怖い、気持ちいい、……もっとしてほしい。
 様々な感情が渦巻き、そのどれもがこの男が、稲葉江が好きなのだと主張していた。
「んッ……!」
 とうとう辛抱堪らず、噤んでいた彼女の唇から声が漏れた。すると稲葉江は弾かれた様に彼女の肌から顔を上げる。熱を持ってどうしようもないの顔を見て、彼は僅かに瞠目した。
「……何だその顔は」
「え……?」
 何だと言われても、鏡がないのだから彼女は今自分がどんな顔をしているのかを知りようがない。その身を追い立てるような波から逃れたが瞬きをすると、知らぬ間に瞳に溜まっていたらしい涙がぽろりと頬を伝った。
「………………」
 稲葉江は長く息を吐くと、彼女の目尻を優しい手つきで拭った。
「……悪かった」
 何がさっきまでの彼の溜飲を下げたのか、さっきまでの剣呑な雰囲気が嘘のようだ。稲葉江の謝罪の言葉に、今度はが驚く番だった。
「な、なんで稲葉が謝るの。謝るのは私でしょ。避けててごめん……」
「我が何かしたのだろう」
「そうじゃなくて」
「濁すな。朴念仁の自覚はある」
 怒られる謂れはあっても謝られる心当たりは一つもない。は慌てて、彼に謝罪を重ねた。
 稲葉江の方は自身に心当たりがないまでも、何かの怒りを買ったのだと思っているようだ。勘違いで彼の矜持に傷をつけるのはとしても心苦しく、けれど誤解を解こうにも、その為には避けていたわけを一から詳らかにする必要があった。
「本当に、違うの。稲葉が悪いわけじゃない……」
「だったら何だ。心移りか?」
「ち、ちがう!」
 稲葉江の口調に棘が戻りそうになって、強く否定しようとは声を張り上げた。
 こんなことで仲違いをしたままいるよりは、自らの恥を明かした方がずっとマシだ。は深い深呼吸をして腹を括った。物々しく「絶対嫌いにならないでね…」と前置きすると、さすがの稲葉江も身構えた様子で頷く。
「その…………えっと、稲葉が遠征から帰ってくる、前日にね? ん……ゆ、夢を見て」
 歯切れ悪いが話すのを、稲葉江は無言で見つめていた。彼にその気はないのだろうが、その視線に圧を感じ、彼女の口調はよりたどたどしいものとなる。
「それがね、ちょっと……あんまりよくないっていうか」
「悪夢か?」
「う、ううん。むしろいい夢……っじゃなかった。えっと、ちょっと気まずい夢」
 これだけで全てを察してくれとは願ったが、ここまで言っても稲葉江は全くぴんときていない様子だった。これで気付くような敏感な男なら、はなから苦労していない。それどころか彼は「我が謀反を働く夢でも見たか」などと大真面目な顔で見当違いなことまで言ってのけるので、はお手上げだ。
「だから違……あーもう!」
 恥じらいとか誤解を招くだとか呆れられるだとか痴女だと思われるだとか、そういうことが全部面倒になって放り投げたくなったは、突然大きな声を上げた。
「い、稲葉とえっちなことする夢見たの!それで恥ずかしくて顔合わせられなかったの! 避けてたら今度は戻すタイミングなくなっちゃって……あーもう、こんなこと言わせないでよ!」
 さっきまでの躊躇いはどこへ逃げ出したのか、大声で捲し立てると、稲葉江は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。彼女の勢いに気圧されるあまり言葉の意味を理解するのにも時間がかかって、何と返事をしていいのかわからないらしい。
「……その」
「だから言いたくなかったのに、心移りとか謀反とか、そんなわけないじゃん! もーわからずや!」
 堰を切ったように怒り始めたにぽこぽこ胸板を叩かれて、稲葉江はやり場のない手を浮かせていた。彼は何も出来ず、ただされるがままになっている。ついさっきとはまるで立場が逆転していた。
 しばらく騒ぐとは落ち着いて、羞恥のあまり顔を覆った。くだらない理由から彼を避け、その結果関係性を拗らせ、挙げ句の果てには逆ギレだ。情けないことこの上ない。じわりじわりと後悔がの後を追う様に襲ってきたが、ここまで吐露してしまった以上もう逃げも隠れも出来なかった。
 が指の隙間からちらりと稲葉江の様子を窺う。気遣いやフォローという言葉に縁遠い彼は、己の情けなさに今にものたうち回らんとしている彼女に何と言葉をかけていいかわからないようだった。
「……ごめん、恥ずかしい女で。呆れたよね?」
「ああ。……我自身にもな」
「……………ほんとにごめん」
 全身の熱が冷めるように頭ごと冷静になったは、ふとさっきまでの稲葉江の言動を思い出した。
 ——あれではまるで、自分に避けられて落ち込んだ挙句富田江に悋気しているようではなかったか。
 自分ばかり彼への恋心に焦がれ振り回されているとばかり思っていたは、思いもよらぬ彼の本心を知り、胸の中でじわりと温もりが広がる様な喜びを感じていた。
「稲葉」
「何だ」
「ぎゅってしてほしい……」
 もはやここまできたら恥じらうだけ無駄である。今この場所には稲葉江と、男女ふたりきりなのだから。
 稲葉江は一瞬の逡巡の後、彼女に命じられるがままにを抱き寄せその逞しい腕の中に閉じ込めた。依然としてその手つきは優しく恐々したものだったが、それが彼女には尚のこと愛おしいと感じる。それほどまでに自分は彼にとって大切で守りたい存在なのかもしれない、なんて、珍しくポジティブな想像が広がった。
 大事なことを言わない同士で妙な誤解をして、されてばかりだ。こうして言葉にして頼めば、不慣れながらも抱きしめてくれるひとなのに。不器用だけれど真っ直ぐで、嘘のつけない人なのに。一体何をややこしいことばかりしてたんだろう。は稲葉江の腕の中でそんなことを思った。
 今この場所が、この世で一番安心できる場所だとさえ思える。ひたりと耳を張り付けた胸板の向こうから、少しばかり早い心音が聞こえていた。
 しばらく抱きしめられていたは、満足したとばかりに照れ臭そうな笑みを浮かべながら稲葉江から身体を離した。
 先程までの張り詰めた空気が嘘の様に甘ったるい。は照れ隠しに稲葉江の服の裾をくいくいと掴んで引っ張った。
「そろそろ晩御飯、だよね。行こっか」
 稲葉江の部屋を出ようと彼女が障子の木枠に手を添えた時、稲葉江が「待て」と呼び止めた。が振り向くまでもなく、稲葉江がすぐ背後に迫っている。彼女の耳元に、彼の唇がそっとよせられた。
「その気があるなら、いつでも閨へ呼べ」
 少し掠れた色っぽい声は、まるであの夢のようだ。けれどその音は間違いなく現実であると、背中に寄り添った体温が彼女に伝えている。
 は顔から火が出そうな程に赤面し、その場に蹲って立てなくなった。


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