Sink

残夜のひとりごと

 最初に失言をしたのが誰だったのか、今ではもう思い出せない。それほどにも回りも、いい塩梅に酒が回っていた。
 刀種刀派入り乱れた酒宴は十五振り前後が参加していた。メンバーも出たり入ったりで、日付が変わったくらいには酔い潰れた者がそこらに転がされていた。
 を含め生き残った酒豪たちは、深いような意味がないような、酒が入っていなければしないような、いかにも飲み会の終盤らしい話をして、やたら進むのが早い時計を見ては「おいおいもう三時だぜ」なんて笑い合っていた。
 そんなわけだから、経緯は定かではない。ただ確か江の刀の話をしていて、誰かが言ったのだ。「稲葉って主のこと好きだもんなぁ」と。
 最初こそ、また性質の悪い冗談が始まったとは思っていた。彼女の時代ではもはや淘汰されかけた、品もデリカシーもない軽口だろうと真剣に取り合うつもりもなかった。
 稲葉江は真面目で堅物で冗談の通じない刀で、こういう時の格好の標的になりやすかった。『鶴丸国永プレゼンツ・驚きの回答を待ってるぜ! 刀剣大喜利大会』の回答でも彼の名前が何度も出ていたくらいで、この本丸の稲葉江は不運にもそういう役目を背負わされている。(余談だが、ほかによく名前が出るのは大包平と数珠丸恒次である。)
 しかし本人不在の中、それは悪ノリが過ぎるんじゃないかと彼女がやんわり止めようとしたところ、周囲の反応がの想像とちょっと違っていたのである。
「それ言っていいヤツ?」
「さぁ。でもみんな知ってるだろ」
「ですよね。……主どうしたんですかその顔」
「えっ? えっ、……え? あの、何? 冗談だよね?」
 引き攣った笑いを浮かべていたのはだけだった。
 ピンクのほっぺで可愛い顔した大和守安定が全然可愛くない銘柄の酒をお猪口に注ぎながら「もしかしてこれダメなやつじゃない?」と言う。がひとり端っこで胡坐をかいていた鬼丸国綱に視線をやると、彼はすっごく気まずそうにそっぽを向いた。
「ちょっと鬼丸、無視するな」
「こっちに鬼の気配がする」
「お前たち、まだやっていたのか?」
 部屋の障子が開いて、現れたのはへし切長谷部だ。昨日、半端な時間に遠征から帰還した彼は、仮眠を取ったせいでこの時間に目が覚めてしまったらしかった。
 へし切長谷部は酒宴のメンバーにがいることに気付くと、途端にぴっと背筋を正し「主も起きていらっしゃったんですか」と声色を変えた。
「何かあったんですか? 妙な空気ですが」
「長谷部さ、一個聞いていい?」
「はい。何なりと」
 へし切長谷部が丁寧にのそばで正座をする。さっきまでぎゃいぎゃい賑やかだった面々は、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
「その……稲葉ってさ、好きな人いるの? 長谷部、知ってる?」
「は………………、その、存じ上げて、おります」
「…………………」
 へし切長谷部はとっても長い間を置いて、言葉をいろいろ選んだ末にそう答えた。
 その返答は噂の肯定を意味する。稲葉江に恋い慕う相手がいたとして、その対象がでなければへし切長谷部は興味を示さない。
 本丸発足時から主戦力であった彼は今や前線を退いたが、後進育成のために後輩に稽古を付けながら総務番長として日々忙しなく働いている。いち同僚の色恋沙汰に頭のリソースを割けるような暇人ではなかった。彼が知っているということが全てであり、その反応から答えは明らかだった。
「ごめん、試した。今ね、その……なんか、稲葉が私のことを好き、みたいな話になってさ。そんなわけないよねって私は思ってたんだ。思ってたんだけど、え、長谷部が知ってるってことはさ、そうなんだ。やっぱ。ええ?」
 混乱して口数が目に見えて増えたに、彼女の可愛い愛刀たちはどう声をかけていいかわからなかった。頭を抱えて「ごめん稲葉」とぼそぼそ呟いている者から、「どーすんのこれ」と他人事のように現実逃避を始める者までいる。
 状況を読み込めないへし切長谷部は「俺が、何か失態を犯しましたか」と哀れにも表情を曇らせる。無理矢理巻き込まれた彼を不憫に思ったは「そんなことないよ、長谷部はいつも頑張ってくれてえらいよ」と酔っぱらいの雑な手つきで彼の背を撫でて労った。
 結局この件で空気が変わってしまったせいで、飲み会は微妙な空気でお開きとなった。
 翌朝、その場に居合わせた者たちは皆、同じ罪を背負った共犯者のような鬱々とした顔をしていた。早々に脱落した刀たちは訳も分からず、「あの後飲み会でなんかあったのか?」と興味津々に訊ねたが、罪人たちは見事に結束力を発揮し口を固く閉ざし、その深夜の出来事を彼らの記憶の中で葬り去ろうとした。

 取り残されたのは一人、気まずい思いを抱えたである。
 酒の席の与太話にしては、ちょっと聞き流せない内容だ。問題は稲葉江がを好きだという噂ではなく、それが以外ほぼ全員の共通認識であったことだった。
 つまりそれほどまでに、彼の好意は赤裸々で露骨なものだという。身内の江の刀だけならまだしも、噂話に疎そうなへし切長谷部や鬼丸国綱が知っているというのだから相当だ。恋心どころか稲葉江が何を考えているかすらにはまったくもって読み取れないというのに。
 が腕を組んで考え事をしながら本丸を散歩していると、ジャージ姿の江の双璧二振りを庭で見かけた。は後ろめたさからそっと気配を殺したが、二振りは気が付いて彼女に視線を向ける。無視をするわけにも行かないのでが手を振ると、彼らは彼女のもとへと向かって歩いてきた。
「どうしたの、こんなところで。何か探し物でもしていたのかな」
「ううん、ただのお散歩。そっちは……畑帰り?」
「桑名の手伝いだ」
「たくさん収穫できたから、近いうちに食卓に並ぶと思うよ」
 土いじりを手伝わされて不満げな稲葉江とは対照的に、富田江は楽しそうだった。
 先月この本丸へやってきた富田江は、先に顕現した稲葉江をはじめ江の仲間たちから色々と学びながら過ごしている。最近では、篭手切江のれっすんにも参加しているそうだ。新しい刀が顕現する度にちゃんと馴染めるだろうかと気を揉むだったが、富田江に関してはいらぬ心配のようだと胸を撫でおろした。
 が何気なく足元を見ると、彼らの下半身は見るも無残に泥だらけだ。白いジャージの富田江はもちろん、真っ黒な稲葉江も汚れている。文句を言いながらも、熱心に取り組んでいたのだろう。
「さっきの稲葉の雄姿を君にも見てもらいたかったな」
「おい、余計なことを言うな」
「えっ、なになに? 気になる」
「さっきカブを収穫したんだけれど——」
「富田!」
 稲葉江は慌てて富田江の肩を掴み、声を荒げて彼の言葉を遮った。普段なら声を低くして圧をかけることくらいはあるだろうが、ここまで動揺を露にするのは相手が片割れだからこそだろう。
 そんな見慣れない稲葉江の姿が面白かったので、がけらけらと腹を抱えて笑う。稲葉江は何がを面白がっているのか見当もつかないといった様子で、を見下ろした。
 その困惑の表情がツボに入ったのか、笑いすぎるあまりの呼吸がひいひいと荒くなる。富田江がさすがにその身を案じて「大丈夫?」と声をかけた。
 しかし稲葉江が固い声色と決まり悪そうな顔で「そう笑うことでもないだろう」と言ったのがさらに追い打ちをかけたらしく、はとうとうその場に蹲る。
 よくわからないまま笑われて心底困っている稲葉江、というシチュエーションすべてがの笑いを誘っていたが、最後の方は彼の顔を見ることすら苦しい状況だった。はっきり言って異常な光景だが、そこにいたのは無口で不愛想で自分がなぜこうも笑われているのかよくわからない稲葉江と人の身を得て僅か一か月余りの富田江、突っ込める人物などいやしなかった。
「し、しぬ、いなばに笑い殺される」
 大真面目に心配して差し出された富田江の手を掴み、はバランスを取って何とか立ち上がる。未だ息が整わない彼女がひいひい言っていると、何かを勘違いしたへし切長谷部が縁側から「おいそこの江! 主に無礼を働くな!」と指をさしながら怒鳴った。
「ちが、ちがうよ長谷部、笑ってるだけだから、っく、」
「……無礼はどっちだ」
 稲葉江がキャップのつばを下げながら不満げにそう呟いたから、今度こそは呼吸を整える隙を失った。もはや彼の一挙一動すべてが面白くなっているらしい。富田江は相方がにウケたのが嬉しかったのか、彼女を心配しながらも頬笑みを浮かべていた。
「いだっ、いたたたた、折れる、鎖骨折れる」
 笑いすぎたが痛みを訴え始めると、むっすりと不機嫌に顔を顰めていた稲葉江が途端に血相を変えた。前に倒れこみそうになったの肩を掴み、「どこが痛む」と切羽詰まった様子で尋ねる。その変わり身の早さたるや、富田江も目を見張るほどだ。
「立てるか」
「だ、だいじょうぶ」
「痛むようなら我が薬研の元まで——」
「もう、大丈夫だってば……」
 が過剰に心配する稲葉江を安心させようと顔を上げると、彼とばちりと目があった。眉根を寄せ、まるで自分の傷が痛むかのように苦し気な顔をしている。
 彼女はその顔を見て、「あぁこれは誤解させるかもしれないな」と思った。
「ごめんね、ほんとに平気。あはは、笑いすぎて死ぬとか、そっちのほうが笑えない」
「痛みはもうないのか」
「大丈夫だって、もう……そんなんだから」
 ——私のこと好きだと思われちゃうんだよ。
 出掛かった言葉をはぐっと飲みこむ。自分がほかの刀剣らに揶揄されていることを知れば、きっとこの義理堅い刀は不快に思うだろう。
 は頭を横に振って誤魔化し、人の身を得てまだ浅い富田江に「ごめんね、びっくりさせちゃったね」と声をかけた。
「本当に大丈夫? 篭手切から君の身体はとても弱いと聞いたけれど」
「篭手切は大袈裟なの。いっぱい心配してくれてありがたいんだけどね。……そうだ、二人ともお風呂入ってきたら。そのまま上がったら歌仙とかに怒られちゃうよ」
 稲葉江と富田江は泥のついた顔を見合わせる。富田江は苦笑して「そうさせてもらおうかな」との言葉に従うことにした。

 がそのあと厨に顔を出すと、収穫されたばかりの新鮮な野菜を洗う桑名江に出会った。
 富田江の言葉通り、豊作であるらしい。カゴいっぱいに野菜が入っている。その中には、先ほど話題に出たカブもあり、は結局、先ほどの稲葉江の話を聞きそびれたことを思い出した。
「さっき畑帰りの稲葉と富田に会ったんだけど、なんか面白いことあったの?」
「面白いこと……あっ、もしかして稲葉さんのことかな……。くっ、ふふ」
「えっ、ちょっとまって、そんなに面白い話?」
 珍しく桑名江が口を押えて思い出し笑いをしていたので、は興味よりも恐怖心が勝って話を聞くのをやめにした。「今度こそ稲葉に笑い殺されかねない」と思ったからだった。

 稲葉江がに惚れていると誤解を受けるほどに彼女の身を案じるのは、とある事故が原因であった。
 それは稲葉江が顕現して間もない頃、約一年前まで遡る。
 その日、刀剣男士としてはまだまだひよっこの稲葉江が重傷を負って帰還した。
 隊長はがこの本丸にやってきて初めてその手で顕現させた彼女の懐刀、乱藤四郎だ。チャーミングながらその実力は本丸随一で、新刃しんじんに傷を負わせるような失態を犯すとは思えない。
 一体何があったのかと問いただすと、稲葉江の独断行動が原因のようだ。こうした事例は往々にして起こりうることだった。
 人体への理解が浅く、武器としての意識が強すぎるあまり無茶をしてしまう。腕の腱が切れれば刀を振るえないし、失血すれば体は思うように動かない。人の身を得たばかりの刀剣男士は、時にそういうことが分からず、つい理屈だけで先走ってしまうことがある。
 過去に似た事例を見てきたは「稲葉もそういうタイプか」と思い、彼を一振り部屋へ呼んで説教をした。
 人の身の脆さ。独断行動で被害を被るのは自分だけではないこと。この本丸に顕現した以上、味方の身以上に自分の身も案じてもらわねば困ると、なるべく平易な言葉で説き伏せたつもりだった。
 しかし、稲葉江は自分の判断に誤りがあったとは思えないと主張して、の言葉を聞き入れない。いくら欠損しようと刀さえ無事なら身の修復が叶うのであれば、多少の負傷は厭わないとまで言い始めた。
 無謀な自己犠牲がさすがに頭にきたは、ついかっとなって手が出た。
 ただの小娘であるが刀剣男士に傷ひとつ付けられるはずもないのだが、そこは相手が人体初心者の稲葉江だったことも災いした。振り上げた拳を止めようとの細腕を稲葉江が咄嗟に掴んだ拍子に、ぽっきりといってしまったのだ。
 丁度話が済んだ頃だろうと、お茶とお菓子を持ってきた篭手切江が襖を開けたまさにその瞬間だ。稲葉江は自分の身以上に、の身体が脆いことを知らなかった。
 痛みにのたうち回ると己がしたことの重大さに混乱し顔面蒼白の稲葉江。その光景を目の当たりにした篭手切江の動きは早かった。
 すぐに近くで忍んでいた五月雨江の力を借りて薬研藤四郎を呼び、応急処置をして時の政府の病院へとを運び込む。事故とはいえの骨を折った稲葉江のメンタルケアをして、乱藤四郎への謝罪にも付き添った。
 プライドが高い分自責の念も強い稲葉江は重い刑罰を望んだが、元を正せば怒りに身を任せ臣下に手を上げようとしたにも非があるとして、この件は関係者間で伏せられることになった。せっかくこの本丸の仲間になってくれたのに、早々主の骨を折ったなんて噂が広まればきっと暮らしにくかろう、というの配慮である。
 目撃者として篭手切江がいたため稲葉江がに謀反を働いたという線が絶たれていたというのが幸いした。の怪我については原因が伏せられ、転んで手を突いたときにぽっきり折れた、と説明がなされた。
 罪の意識から、稲葉江はと距離を置いた。任務に係わる必要最低限以外の会話は交わさず、その時も目を合わせない。それはの腕が治っても続き、二人の仲はぎくしゃくしたままだった。
 それにしびれを切らしたが、ある日稲葉江を呼び出した。「とうとう刀解する気になったか」などと言う彼をまたひっぱたきたくなる衝動を抑える。
「あのさ、うちは顕現したからには仲良くしよう、がモットーなの。今の稲葉の行動はその理念に反してる。組織に所属する者として相応しくない振る舞いなの。わかる?」
「…………」
「稲葉が私に悪いと思ってくれてるのも分かる。でもさ、私は稲葉とちゃんと仲良くしたいよ、せっかく一緒に戦ってるんだし。稲葉は……そういう馴れ合いみたいなの、あんまり好きじゃないかもしれないけどさ。軍の結束力を高めるためにも大事なことだと私は思ってる」
「……つまり、何が言いたい」
「だから私のこと避けるのやめて。怪我のことが申し訳なくて気が済まないっていうんだったら、覚悟を結果で示してよ。避けられたってなんの得にもなりやしない。せめて私の役に立って。軍場が向いてるって言うなら、そのやり方で形にして」
 啖呵を切ったが稲葉江の出方を伺う。また以前のように言い返されるかと思いきや、彼は意外にも瞼を伏せ、口角を上げて僅かに笑った。
「……ふ、実に明朗だ」
 その時、は初めて稲葉江の笑顔を見た。
 常に口をへの字に曲げ、口を開けば戦のことばかり。そんな彼が戦場以外で本心から笑うことなど、ありはしないと思っていた。その反応に驚くあまり、彼女は稲葉江から目が離せないでいた。
「承知した。必ずや、天下を我が手に」
「うん、よろしくね」
 が手を差し出すと、稲葉江は躊躇わず握り返す。彼女より二回りほど大きな手は厚く硬い。
 彼の言う天下を彼女は本当の意味で理解していなかったが、その時はやっと稲葉江と本当の意味で会話が成り立ったと感じた。一先ず目下の悩みが一つ解消して良かったと、ほっと胸を撫でおろす。
「とりあえず、それだけ。ごめんね、時間貰って」
「待て」
 が部屋を出ようと腰を上げると、稲葉江が呼び止める。彼女が稲葉江の方を見ると、彼はらしくなく視線を彷徨わせたあと、歯切れ悪く「傷は、もういいのか」と訊ねた。
「稲葉に避けられてる間に治ったよ。綺麗に折れたから綺麗にくっついたね、ってお医者さんが言ってた」
 いたずらっぽく笑った彼女が言う。彼は決まり悪そうに「そうか」とだけ返したが、その表情にはどこか安堵が滲んでいた。

 その後の稲葉江の活躍は目を見張るものだった。
 もともと武芸に秀でた刀だが、それにしたって凄まじい快進撃だ。の言葉に応えるが如く、次々に武功を上げた。
 天下の夢のためか、はたまたへの罪悪感を昇華させるためか。元より気さくな刀ではなかったため友好的と呼べるほど暖かなものではないが、への態度も軟化し、二人の蟠りは解けた。

 溜まっていた書類仕事を片付け、共に働いていた山姥切長義と松井江を置いて執務室から逃げ出したは、本丸の使われていない一室を訪れていた。
 昨年、どうせまた新たな刀が増えるだろうと大規模な増築をしたおかげで、現在この本丸には空き部屋が多い。まめな刀が手入れをしてくれているおかげで中は綺麗に掃除されており、いつでも新刃を迎える準備ができていた。
 その中でもこの部屋は日当たりがよく、昼寝に最適な場所だった。百を超える刀剣男士と共に暮らしていると、どこにいても人の気配がする。静かな場所で落ち着きたくなった時、はこの部屋を訪れていた。
 午後の暖かな日差しを浴びていると眠気が襲ってくる。苦手な書類仕事を棍を詰めてやっていたのもあって、疲労が溜まっていた。
 は誘われるように畳に横になり、瞼を閉じる。睡魔に抗うことなく、彼女は眠りについた。

 寒気を感じ目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。
 この部屋には時計がないため、正確な時間がわからない。さすがに夕食時にの姿が見えなければ誰かしら探しに来るはずだから、時間はそう経ってはいないだろうと判断する。
 が体を起こすとぽそりと肩から布が落ちた。黒色のジャージだ。ここを通りすがった誰かがかけてくれたのだろうか、と畳に落ちたそれを拾う。
 刀派ごとにお揃いの服を着ていることが多いから、デザインである程度持ち主の目星は付くだろうと思いそれを広げると、緑のラインが目についた。江派の揃いの色である。
「稲葉じゃん」
 は誰にも届かぬ独り言を漏らした。
 ここは道場や稲葉江の部屋からは遠く離れており、用がなければ通りがかるはずがない。不自然に感じたが、親切心は有難い。肌寒く鳥肌の立った身を守るために、もう少し借りておくことにした。
 薙刀や槍ほどではないが彼も体格がいい。がジャージを羽織るとぶかぶかで、袖が余った。
 ふと、は思い至る。今ここに稲葉江のジャージがあるということは、彼は今それを羽織っていないということだ。
 稲葉江は戦場でも当番の時も、肌にぴったりと張り付くインナーの上からジャケットやこのジャージを羽織っている。つまり、今稲葉江は上半身が相当に手薄なのではないか?
 気付いた途端、は悪いことをした気になって、ジャージを返すため、慌てて空き部屋を出て稲葉江を探すことにした。
 刀剣男士たちは自分の身体を晒すことに抵抗がないのか、それとも自信があるからこそそれを厭わないのか、時々「どういう意図をもってその服を着ているんですか?」と訊ねたくなるような、肉体美を惜しみなく押し出した服装をしていることがある。顔より先に大胸筋が目に入った道誉一文字が記憶に新しい。同じ大浴場を使う刀剣男士同士なら多少の露出も気にならないのだろうが、異性であるとしてはできれば遠慮してほしい部分であった。
 が刀剣たちの居住エリアへと急いで向かうと、彼女がわざわざここまで出向くのが物珍しいのか、すれ違いざまに刀剣男士たちが次々と声をかけた。
 稲葉江の服を着ながら彼の思い人である(と本丸中に認知されている)が切羽詰まった様子で彼を探しているので、刀剣たちは「こりゃ何かあったな」と思いながら各々心当たりのある場所を伝える。加州清光の「稲葉なら厨で配膳手伝ってたよ」という言葉を信じて厨房へと向かうと、お目当ての人物がまさに栗ご飯をよそっていた。
「服着てるじゃん!」
「……何の話だ」
 隣でお椀に味噌汁を注ぐ燭台切光忠が、体を大きく逸らして吹き出した。
 稲葉江はの予想を裏切って私服の浴衣に身を包み、作業がしやすいように襷掛けにしていた。てっきり寒々しい格好で鍛え上げられた肉体を晒していると思っていたものだから肩透かしを食らい、はしてやられたような気分になる。
「上着貸してくれたでしょ。今頃稲葉が寒くて震えてるかと思って慌てて返しにきたの」
「……それを着たまま本丸を歩き回ったのか」
「え? そうだけど。いいじゃん寒かったんだし。今返すって」
「…………」
 稲葉江の意図するところが分からず脱ごうとするを「冷えるなら着ていろ」と彼が制止する。彼のジャージが意外と着心地がいいことを知り、自分の体温が移ったこの温もりを手放し難く思っていたは「あ、そう?」とあっさりその言葉に甘えた。
「っていうか私が昼寝してたの、よく見つけたね。起こしてくれてもよかったのに」
「夕飯までに起きると言っていただろう」
「……私、稲葉と喋った?」
「寝ぼけていたようだがな」
「稲葉くん、栗ご飯終わったならこっち頼めるかな」
 人数分のご飯をよそい終えた稲葉江は、厨番長の燭台切光忠に促され次の作業へと移る。
 夕食どきの厨はほぼ戦場に等しい。おしゃべりに付き合わせている場合ではないかと、は夕飯の時間まで時間を潰すことにした。
 
 
「主、今いいかな」
 食後、居間扱いの広い和室でゴロゴロしながら電子コミックを読み、「契約結婚モノの漫画の旦那って大体稲葉みたいな男だな」などと考えていたは、松井江に手招きされ体を起こした。
「夕方、豊前が洋菓子を買ってきてくれたんだ。夕食の後だから無理をしなくてもいいのだけれど」
「甘いものは別腹だよ、任せて」
 彼に連れてこられたのは厨房で、松井江は冷蔵庫の中から丁寧に紙箱を取り出す。が1番好きなオペラだ。金箔とチョコレートの装飾が上品で、つやつやしっとりとした表面が濃厚な甘さを期待させる。は目を輝かせた。
「美味しそう! いいの?」
「あぁ。せっかくならお茶でも淹れようか」
「やったぁ! ありがとう、松井」
 共有棚から紅茶缶を取り出してお茶の準備をする松井江の表情は穏やかで、貴公子のようだ。日中、鬼の形相で表計算ソフトを睨んでいた人物と同一人物とは到底思えなかった。
 松井江が淹れてくれたお茶と上品なオペラをは堪能した。一人で食べるのもなんだしと「松井も半分食べる?」と彼女がフォークで切り分けようとすると、松井江は首を横に振る。
「僕は夕方長義と一緒にいただいたから。それはあなたの分」
「え、私だけはぶられてる……?」
「探したんだけど、よく寝てただろう」
「松井も探しに来てくれたの?」
「いや、稲葉から聞いたんだ。よく寝ているから起こすのが忍びないって」
「えっ」
 は夕食の支度をする稲葉江との会話を回想すると共に、頭にふっと記憶が浮き出してくるのを感じた。
 夕方、差し込む温かな日差しに微睡みながらその気持ち良さに身を委ねていると、誰かの声がしたのだ。返事をしたのも無意識で、何と言葉を交わしたのかまでは思い出せない。
 ただ覚えているのは、薄ら開いた瞼から見えた、らしくない穏やかな表情だ。慈愛なんて彼から最も遠い言葉だろうに、慈しむような眼差しは暖かだった——気がした。
「主、どうかした?」
「えっ?」
「顔の血色がいいみたいだから」
 松井江に言われて、はフォークを持ったまま自らの頬にぴたりを手を当てた。鏡を見なくてもわかるほどに、顔が熱を持っている。
 気温の下がり始めた秋の夜、暑くてなんて言い訳は出来そうにない。熱った頬は、彼女が気付くよりも先にその想いを表していた。
「なんでもない! 松井の淹れた紅茶とこのケーキが美味しかったからさ、幸せだなーって」
「そう? それは光栄だ」
「へへ、へへへ……」
 勘の鋭い松井江は、が本意を隠したことに気付いていただろう。それでいてその奥を探ることをしない、優しい刀だった。
 は後片付けを申し出る松井江を断って、冷水に手を晒しながら熱くなった身体と速い鼓動を鎮めようとした。脳裏には、いつまでもあの眼差しが焼き付いていた。


 太陽が沈む支度を始め、その色を変えた頃だ。出陣の予定もなく、自己鍛錬をしようにも道場は使用中で時間を持て余した稲葉江が部屋へ戻って本でも読むかと廊下を歩いていると、豊前江と松井江に出会でくわした。
 外出から帰ったばかりなのか、着込んだ豊前江が「稲さん!」と元気よく手を振って声をかける。
「稲葉、主を見てないかい?」
「……なぜ我に問う」
「知ってるかと思って。豊前が洋菓子を買ってきてくれたんだけれど」
 松井江の手には洋菓子店のロゴが刻印された紙箱があった。「主たちが修羅場ってるって聞いたからさ。頭使うと甘ぇモン食いたくなるだろ?」と、気を利かせた豊前江が買ってきたようだ。
「見かけたら声をかけておく」
「頼むよ。今頃どこかで昼寝でもしているのかもしれないな」
 二振りは山姥切長義を探しに行くと言って廊下の角を曲がっていく。稲葉江は松井江の言葉を聞き、つま先を自分の部屋と逆に向けた。
 いつか、稲葉江は静かな場所を探し本丸を歩き回ったことがある。増改築を繰り返した母屋は、数年暮らしていてもほとんど足を踏み入れることのない場所が多い。
 そんな探索の折、人目を避けるようにひとり微睡む彼女を見たことがあった。これだけ人のいる本丸での姿が見当たらないとすれば、今もあの場所にいるのかもしれない。
 稲葉江の予想は見事に的中し、は空き部屋でひとり、いつかと同じく夕日を浴びながらすやすやと寝息を立てていた。
「おい」
「…………」
「寝ている——か」
 声を掛けても目を覚まさないほどに熟睡しているらしい。揺さぶり起こして「松井が菓子があると言っていた」と言えば飛び起きるのは目に見えていたが、どうしてかそれができない。
 なんとなく顔を見たくなって、稲葉江はその場に膝をついた。
 垂れ下がった髪を指先で避けると、あどけない寝顔が露になる。ふっくらとした頬が畳に押し当てられ、餅のようだと思った。
 戦のない平和な時代に生まれ育ったからか、本丸という外界と断たれた空間で長い時間を過ごしたからか。歳の割に彼女は幼く見えた。
 この戦に身を投じて長いは、理不尽や悪意を知らないはずがない。それでも彼女は汚れなく高潔で、だからこそ彼女のもとに集った刀剣男士たちは彼女のために刃を振るった。天下を追い求め顕現した稲葉江も、そのうちの一振りである。
 彼女という存在が脆く儚いことを、稲葉江は身を以て知っていた。花を手折るが如く、その骨は容易く砕ける。
 日頃触れるのを躊躇うその身に指先が触れると、稲葉江は鋼だった頃には知り得なかった、言葉にし難い感情が沸き上がるのを感じた。
「ん……」
 が身動ぎし、声を漏らす。目を覚ましたかと思った稲葉江はそっと指を離した。
「……起こしたか」
「…………」
 寝惚けているのか、重い瞼が開く気配はない。はそばにいるのが誰かも知らないまま、「ごはんまでには……おきる、から……」と睡眠を妨げようとする侵入者を排除しようとした。
 夕飯まではあと一時間ほどあり、このまま寝かせておいても問題なさそうだ。夕飯当番に当たっていた稲葉江は、飯の支度が終わっても姿が見えなければ起こしにくればいいだろうと判断し、彼女を寝かせたままにしておくことにした。
 今でこそこの部屋は暖かいが、きっと三十分もすれば日が落ちて気温も下がることだろう。稲葉江は羽織っていたジャージを脱いで彼女にかけてやると、キャップを目深にかぶりなおし、自室へと戻った。

 ある日、の元に届いた封書の中には、見覚えのない書類があった。がそこに並ぶ文字を読み上げる。難しい言葉遣いが並んでいたが、『戦績優秀者』と『慰労パーティ』の言葉さえ耳に入れば、その日近侍を務めていた乱藤四郎は弾むような声をあげた。
「パーティ!? あるじさん、パーティに行くの!?」
「立派な成績を収めた審神者だけが招待されるんだって」
 彼の脳内には煌びやかなお城と華やかな催しが広がっているらしい。招待されたよりもずっとそのパーティとやらに思いを馳せ、目を輝かせる。
「すっごーい! じゃあ当然、おめかしするんだよね?」
「えっ? まあそうなるのかな……」
「ダメだよ可愛くしないとっ!」
 ドレスコードについて記されていないかとパーティについての要項を読み返すと、一振り刀剣男士を伴うこと、の一文が目についた。特に指定はなく、審神者が選んだ一振りを付き添わせよとのことである。
「乱、一緒に行く? 一振り連れて行けるみたい」
 はこんなに楽しそうにしているならと彼を誘ったが、乱藤四郎は意外にも首を横に振った。めかしこむのが好きな刀だから、ドレスでもスーツでもきっと喜んで着てくれるだろう。乱藤四郎と共に着飾るなら楽しそうだと思ってのことだったが、当てが外れは少しばかり驚いた。
「ダメだよ、こういうのにはいっちばん頑張ったひとを連れて行かないと!」
「一番頑張った人……?」
 確かに、時の政府の中での本丸の格が上がったというならば、労うべきはその功労者だ。最も武功を上げた者を選ぶのは理に適っていた。
 だとしたら一体当てはまるのは誰だろう、と考えたときに、真っ先に思い浮かんだのは稲葉江の仏頂面だった。
「い、稲葉……?」
「稲葉さん、ここ一年くらいずっと頑張ってくれてたよね。いいと思うっ」
「えぇー……来てくれるかな?」
 が稲葉江が礼服に身を包みドレスアップしてパーティーに参列している姿を想像した。が、イメージの中ですらあまりにも似合わない。老舗高級旅館のような日本家屋ならまだしも、今回の会場は洋館だと聞く。そんな中を彼が自分をエスコートするなんて、は考えられなかった。
「断られると思うけど」
「そんなことないって! ボクも一緒に誘ってあげるから♡」
「うーん……。声だけかけてみるかぁ」
 そうしてが稲葉江を呼び出し顛末を話すと、案の定稲葉江は「なぜ我が」と顔をしかめた。予想を裏切らない返答に、は内心「ですよね」と諦めムードだったが、引かないのは乱藤四郎だ。
「今年一番頑張った人が選ばれるんだよ! 稲葉さんがいーっぱい頑張ったから、あるじさんは天下に近づいたってこと!」
 天下、その言葉に稲葉江の肩がぴくりと跳ねる。乱藤四郎はこれはいけると判断したのか、畳みかけるように言葉を続けた。
「一番のご褒美なんだから、他に譲っちゃダメだよ! それに、あるじさんも稲葉さんに来てほしい~って言ってたし!」
「えっ」
 が「言ってないけど」と乱藤四郎に視線で訴えるが、それはウインクで黙殺された。
 稲葉江がを伺うように見つめる。この流れでは乱藤四郎の策に乗るしかないと、は「稲葉が来てくれたら嬉しいなぁ」と両手を合わせ小首を傾げ、かわいこぶって言った。
 彼女なりの精いっぱいのおねだりの仕草を見た稲葉江が眉をひそめる。そのリアクションにの心には小さな傷がついたが、それはそれとして。慰労パーティなら同行者は稲葉江が最適であるというのに異論はない。
 乱藤四郎とがしつこく頼み込んだ末、稲葉江は「それが褒美なら受けよう」とパーティーの同行を了承した。

 パーティの参加に先立って、協力者として古参かつおしゃれに一家言ありますと主張する刀が数振り選ばれた。稲葉江に関しては「稲葉せんぱいのどれすあっぷなら私以外他に適任者はいません」と自信満々に主張する篭手切江に任せることにして、のドレスアップには乱藤四郎に加え、ヘアセット担当の燭台切光忠とメイク担当の加州清光が携わることになった。
 彼らはよりずっとパーティを楽しみにしているようで、雑誌やカタログ、SNSを机に広げコーディネイトの方向性を話し合っている。戦の策を練る時ほど白熱した空気に、は口を挟めなかった。
「あるじさんは色白でかわいいんだからピンク! ぜーったいピンク!」
「戦績優秀者ってことは格上の審神者も来るってことでしょ。若いと思ってナメられちゃダメだって! ここは華やかかつ大人っぽい赤一択!」
「一緒に行くのが稲葉くんなら調和が大事だよね。彼のイメージに合わせてシックでクールなブラックはどうかな」
 ……とまあこんな具合なので、はされるがまま、様々な色のドレープを当てがわれたり髪を結われたりと好き勝手されていた。
 せめてこれ以上ヒートアップしないようにと「あんまりお金かけなくていいからね」と言えば、乱藤四郎が「もうすでに博多と松井さんから予算は確保してもらってるから心配しないでっ」と頼もしそうな笑顔で返した。さすがの懐刀、抜かりないと感心すると共に、彼らの本気を感じては軽い気持ちで頼んだことを後悔し始めていた。

 来る当日。数日から食事やスキンケアを管理され、はこれ以上なく美しく飾り立てられていた。成人式でもここまで気合入れてなかったぞと思いながら、職人の顔つきの三振りに口出しなどできるはずもない。
 ドレスは結局、稲葉江に合わせ黒を基調とし、アクセサリーや小物で刺し色の赤を取り入れ、色を抑えた分曲線的な彼女のイメージを損なわぬよう、華やかで愛らしさのあるデザインのものが選ばれた。日夜意見をぶつけ合った三振りは戦友の絆で結ばれ、なぜか前よりも仲良くなっていた。
「あるじさん、どうっ? どうっ?」
「すっごい綺麗。なんか……自分じゃないみたい」
「なーに言ってんの。主が綺麗でかわいいから俺たちの頑張り甲斐もあったってわけ。自信持って」
「そうそう。今日の君からは誰も目を離せないよ」
 美しく着飾られたは、姿見の前でくるくる回りながらその姿を何度も確認した。
 体型も顔も変わっていないはずなのに、体はさらに華奢で女性らしく、色白だが顔色もよく見える。自分で着飾ってもこうはならないだろう。彼らの仕事ぶりには、さすがと称賛する他なかった。
 せっかくの機会だしと加州清光に写真を撮ってもらっていると、部屋の外から声がかかる。
「失礼します。篭手切江です。主、準備はいかがですか」
「あっ、もう大丈夫。入っていいよ」
 が許しを出すと、襖が開く。篭手切江はの姿を一目見ると、ぱあっと表情を輝かせた。感動を表すように、小さく顔の前で拍手をする。
「わっ……! とても、とてもお綺麗です」
「でしょー。どうよ、俺たちの本気は」
「流石だよ。主の魅力をよくわかっているね」
 篭手切江に褒められて、三振りは誇らしげに胸を張っている。さっきから褒め殺しを食らい居た堪れないは、それぞれがコーディネートのポイントを語り始めたのを大声で阻んだ。
「ねぇやめてよ、褒めすぎ! こ、篭手切は用があって来たんじゃなかったの?」
「そうでした! 稲葉せんぱいの支度も整いましたので、ぜひご覧になってください」
 その名を耳にしてどきりと胸が高鳴る。長い時間をかけて着飾られたせいで本来の目的を忘れかけていたが、は今日、稲葉江とパーティーに向かうのだ。
 と四振りは、稲葉江が待っているという居間へと向かった。日頃履かないストッキングで歩いているからか、もしくは緊張からか。踏みしめる床板の感覚が不思議といつもと違って感じる。
 彼はなんと言うだろうか。これだけ見違えたのだから、一言くらい褒めてくれたりするだろうか? そんな想像をしていると、心臓がバクバクと騒ぎ始める。なぜこんな期待をする必要があるんだと自分で自分に言い聞かせながら、は胸を押さえた。
「お披露目だねっ! 稲葉さん、どんな反応するか楽しみ~っ」
 楽し気な乱藤四郎に手を握って貰いながら、恐る恐る居間の鴨居をくぐった。
 顔を上げると、礼服に身を包んだ稲葉江が目に入る。一瞬、は見惚れるあまり時間を忘れた。
 黒色を基調にしながらもシルバーで華やかさを取り入れ、彼のシャープな印象を引き立てている。日頃無骨な彼だが、こうして着飾るとやはり江の刀。篭手切江の見立てに狂いはなく、華がありながらも彼らしさの残る装いであった。
「どーよ? 主、すっごい綺麗でしょ!」
 しばし無言で見つめ合う二人を遮ったのは加州清光だ。
 稲葉江は口を閉ざしたまま、を爪先からつむじまでじっと眺めている。美術品を鑑賞するようなその視線に、は居心地が悪くてたまらなかった。
「……………」
「稲葉?」
「……悪くない」
 ぶっきらぼうに視線をふいと逸らしながら稲葉江が一言漏らす。は内心気落ちしながら、褒め上手な四振りに乗せられて調子に乗っていたかもと自省した。
 しかし彼女が口を開くより先に、稲葉江の言葉を聞き捨てならないと言わんばかりに勢いよく飛び出したのは、ドレスアップを担当した三振りだった。
「は? つまり良くもないって言いたいの?」
「稲葉さん、ボクたちの仕事にケチつけるつもり?」
「稲葉くん、照れ隠しは格好悪いよ」
 戦場では大先輩の三振りに取り囲まれ、稲葉江は表情を強張らせた。特に乱藤四郎は事故の原因となった任務の部隊長でもあり、彼には強く出られないでいる。
 稲葉江は降参したように小さく息を吐き、再びを見据えた。
「……似合っている。美しい」
 無口で堅物だがひねくれた男ではない。そして、世辞を言えるほど器用でもない。その言葉には嘘偽りがないことは明らかで、彼の端的な称賛はの心にしんと響いた。
 密かに『稲葉江に褒めさせる』というのを目標に掲げていた三振りは、「イェーイ!」「やったね」と声を上げながらハイタッチを交わす。
「稲葉も、似合ってる」
「篭手切の見立てだ」
「うん……。かっこいいよ」
 彼も素直に褒めてくれたのだからこちらが照れていては失礼だと思いがそう口にすると、稲葉江は視線を逸らし「そうか」とだけ言った。
 容姿を褒められて喜ぶような男ではなかったから、彼がの言葉をどう捉えたか、彼女にはわからない。のように期待をしてはいないだろうから、全く気にも止めていないかもしれない。それでも、どうしても今伝えるべきだとは思ったのだ。この男を携えてこれからパーティ会場へ行くのだと思うと彼女は心が浮ついていた。

 パーティ会場までは迎えの車が出ていた。最初こそ落ち着かなさそうにそわそわしていただったが、平常通りの稲葉江と話していると落ち着いたのか、会場へ着くころには手厚いもてなしに興奮しながらも普段通りの明るい彼女に戻っていた。
 車を降りるころには、指導された通り腕を突き出してエスコートしようとする稲葉江を揶揄う余裕すらあった。はくすくす笑いながら、楽し気に腕を組んだ。
 洋館の外装も立派だが、中も負けず劣らず華やかだ。受付を済ませたと稲葉江が会場に足を踏み入れると、豪華な調度品に飾られた大広間が出迎えた。
 ずらりと並んだ料理に加えて、シェフによる実演調理も行われている。労いと士気を上げるためとは言うが、ここまで盛大なものだと知らずは給仕に手渡されたドリンク片手に立ち尽くしていた。
「実力で招待されたのだから、堂々としていろ」
 あまりの場違いさに震え上がるに、稲葉江が囁いた。
 本丸で過ごす時や戦装束の時とは違い、稲葉江は髪を片側後ろに撫でつけている。より露になった端正な顔が迫ってきたのでは小さな悲鳴を上げたが、稲葉江はそれを緊張によるものと捉えたらしかった。
「おや、そちらさんは初めて見る顔だね」
「はいっ!?」
 彼女に声をかけたのは壮年の男性だった。すぐそばには蜻蛉切が控えている。その佇まいからこういった場に慣れた歴戦の審神者なのだろうということが見て取れた。
「は、初めてきました」
「そうか、そうか。まあ固くならずに、交流会とでも思って楽しむといいよ」
 厳めしい顔つきの割に、男は彼女に気さくに接した。話をしていると、どうやらと同じ年頃の娘がいるそうで、彼女のことが気になったのだという。
 男は顔が広いのか、と話している間も次々と声を掛けられていた。その流れで彼女はほかの審神者に紹介され、幾人と言葉を交わす。
 その内に分かったのは、ここへ招かれるような猛者たちは自分とは全く違った考え方を持っているということだった。
 人の身を得たからには仲良く楽しく、なんて甘ったれた考えは微塵もなく、ただ如何にして敵を効率的にかつ徹底的に殲滅するかを第一に考えている。刀剣男士を家族や仲間ではなく、武器、そして兵として扱う彼らと話していると、の表情はどんどん曇っていった。
 パーティの主催者である時の政府役員のありがたいお言葉などを経てパーティは恙なく進行していった。
 出される料理にデザート、ドリンクはどれも一級品で持ち帰って本丸の刀達にも食べさせたいくらいだったが、とにかく話がつまらない。数字と戦果でマウントを取り合うコミュニケーションには付いていけなかった。
 もし自慢話をするならば、うちの大俱利伽羅はけん玉がメチャメチャ上手いとか、五月雨江は企業主催の俳句大賞で賞を貰ったことがあるとか、物吉貞宗がソシャゲの十連ガチャで最高レア10枚抜きしただとか、そういう話がしたかった。
 話が途切れた隙にはそっと会場を抜け出し、バルコニーへと出た。イングリッシュガーデンは電飾で飾られ、景色が眩しい。こんなところまで、生花を用いた飾りつけがされていた。
 アイアンチェアに腰を下ろすと、長い間立ちっぱなしだったせいか足全体に疲労が広がった。話から逃れるようにグラスをちびちび傾けていたが、いつの間にか結構な量の酒を飲んでいたらしい。火照った頬を風が冷やしていく感覚が心地良かった。
 宴だというのに稲葉江は変わらず無表情で、座り込んだを見下ろしている。
 偶然、飾りの生花が彼に重なり、少女漫画よろしく花を背負っているように見えた。彩り豊かな花々があまりに稲葉江に似合わなかったものだから、それがの笑いを誘った。
「あはは、稲葉ってほんとにお花似合わない。あは、おもしろ、ふふ」
「だから言っただろう。このような華美な場は我には向かん」
「でもパーティーは私より向いてたよ」
 こちらを値踏みするような視線、若い女だからと明らかに見下した発言、それらを物ともしなかったのは、隣に稲葉江がいたからだ。
 何人相手でも物怖じせず、何を言われようと動じない。そんな彼に恥じないよう、は凛とした主であろうと居続けた。まっすぐ天下目掛けて走り続け、ここまでを押し上げた稲葉江の矜持が、彼女を奮い立たせていた。
「っくしゅ」
 季節は冬、外套は受付に預け今彼女の身を守るのは薄いショール一枚だ。寒さのあまり、ついくしゃみが漏れた。
「外は冷える。会場へ戻れ」
「ええ、やだよつまんないもん。ビンゴ大会とかやると思ったのに」
「なんだそれは」
「今度うちでも開いてあげるね。あんなパーティに出てるくらいなら、花と似合わない稲葉見てる方がずっと楽しい」
 は再び、稲葉江と花を見比べてけらけら笑った。
 明りに照らし出された稲葉江のはっきりとした顔立ちは彫刻のように美しいのに、優雅な建物と花があまりにミスマッチだ。稲葉江は視線に耐えかねたように庭の方へ顔を背けた。
「ごめん、見られるの嫌だった?」
「鑑賞されることは慣れている」
「さすが国宝」
 長居には到底向かない気候にもかかわらず、はこの場所を離れられずにいた。見知らぬ人に囲まれる事への気疲れもあるが、どうもこの稲葉江と二人きりの空間が心地いい。
 ふと気付けば、稲葉江とは過ごした時の長さの割に二人きりになる機会が多かった。
 彼女に似て刀剣たちは人懐っこく、身を休めるとき以外が一人になることはほとんどない。常々複数の刀剣に囲まれているから、こうして誰かと二人きりで話をする機会は希少だった。
 賑やかで暖かな本丸をは気に入っている。けれど、この静かな時間をもう少しだけ堪能していたいと思った。
 庭を眺めていた稲葉江がふと彼女の方を向き、目が合う。映画のワンシーンのような、非現実的でロマンチックなムードだった。
「そんなにつまらぬ宴なら、我と抜け出すか」
「えっ?」
 は自分の耳を疑った。
 男女が二人パーティを抜け出すなんて、ドラマや映画はベタなシチュエーションだが、まさかあの稲葉江から提案されるとは思ってもみなかったのだ。キザの似合う長船派ならいざ知らず、同じ江なら松井江や富田江あたりなら様になっただろうか。
 まさか頑固一徹の稲葉江に、しかも自分が言われるだなんて。予想外の出来事に、は反応出来ずにいた。
「……似合わん冗談を言った。忘れろ」
 動揺のあまり長い時間硬直していたせいか、稲葉江はそれを断りの返事と捉えたらしい。は慌てて両手を振りながら「いやいや!」と声を張った。
「稲葉冗談とか言わないじゃん! 言ったことないじゃん!」
「酒に酔った」
「全然飲んでなかったくせに!」
 らしくない言い訳を重ねる稲葉江の顔をよく見ると、頬こそ赤くないが下唇を薄ら噛んでいる。そんなところが可愛く見えて、は笑みをこぼした。
「抜け出すって……どこに連れて行くつもり?」
「部屋をとってある」
「うそ、稲葉が?」
「本丸の連中の差し金だ」
 確かこの洋館の上階はホテルになっていて、申請すれば宿泊をすることができると案内書には記載されていた。
 斯様なホテルに宿泊するなど滅多にない機会ではあるものの稲葉江と泊まりだなんて考えもしなかったから、は検討すらしていなかった。ドレス選びで忙しなくしているの代わりに松井江が申請書の記入を買って出てくれたが、まさかあれはそういうことだったのだろうか、彼女は思い当たる。
「稲葉めっちゃ応援されてるじゃん」
「……それで、どうする」
 ——行くのか、我と。
 差し出された手を、は迷わず取って立ち上がった。
 不思議と足の痛みも引き、今ならどこまでも歩いて行ける気がする。の答えに、稲葉江は満足そうに目を細めた。
 彼はに自らのジャケットを脱いで羽織らせ、そのまま肩を抱き、エレベーターホールへと向かった。
「勝手に抜けていいの?」
「構わんだろう」
 遠くに見えたエレベーターホールには人影があった。
 女性の審神者と御手杵だろうか。は同じようにパーティを抜ける人がいることに安堵したのもつかの間、やってきたエレベーターに乗り込む前に二人が口づけを交わすのを見て、彼女はぎょっと肩を跳ねさせた。
 安易に頷いたが、パーティを抜け出して密室へ雪崩れ込むとはそういうことを意味するのではないか? 迂闊なは、その瞬間やっと言外の意味に気が付いたのである。
 若い頃に審神者の任に就き、青春時代を戦に捧げ異性との交際経験もないままこの年になった彼女だが、男女が同じ部屋に泊まることの意味がわからぬほど色恋に疎くもない。自分はこのまま稲葉江にどうこうされてしまうのか、と思うと緊張からどっと汗をかき、心臓が騒ぎ始めた。
 いざとなれば本気で抵抗すれば彼は無理強いしないだろうが、先ほど手を取った時に彼からすれば同意を得たと認識されていてもおかしくはない。あまりにも彼女が幼稚で浅慮だったばかりに、そこまで考えが及んでいなかった。
 稲葉江が自分に欲情する、というのもまるで想像がつかない。長い本丸暮らしの中、個刃差あれど刀剣男士は健全な男性の肉体を持つ者として相応の性欲があることは知っている。けれど、戦場を駆け回り天下を掴むこと以外眼中になさそうな彼が、それに溺れるとは思えなかった。
 いつか見た洋画のベッドシーンや情事の描写のある少女漫画の登場人物を自分たちに当てはめ脳内で再生してみるものの、現実味がない。むしろ、その想像に嫌悪感を一切感じなかったことが、余計にの羞恥心を煽った。
「そう怯えずとも取って食ったりはせん」
「ウン」
「……聞いているか?」
「ウン」
 頭が真っ白になったの耳には、稲葉江の言葉は届いていなかった。
 軽快な音と共にエレベーターの扉が開き、それに乗り込む。
 緊張した面持ちのを見下ろしながら、稲葉江は何か言葉をかけるか迷ったが、自分以外にもこう易々と着いて行かれてはたまらない。いい薬にでもなればいいと、日頃振り回されてばかりの仕返しのように、誤解させたままでいることにした。
 部屋に入ると、いかにもなキングサイズのベッドのスイートルームが二人を出迎えた。期待を裏切らない豪華な内装は、この状況でなければもはしゃいだだろうが、今は危機意識を煽る材料でしかない。こういう時の作法もろくに知らない彼女は、助けを求めるように稲葉江を見上げた。
「い、いなば」
「…………」
 捕食される寸前の小動物のような目で見上げられ、稲葉江は内心虐めすぎたかと反省した。暖かい屋内に着いたのだからもういいだろう、と自身のジャケットを稲葉江が剝ぎ取ると、それにすらはびくりと肩を震わせる。
「湯を張ってくる。そこに座っていろ」
 稲葉江にそう言われたは、無言で頷いてベッドの端に腰を下ろす。稲葉江は何か言いたげにその様子を見つめたが、すぐにバスルームへ向かった。
 部屋へ戻って来た稲葉江はを安心させるように、窓際に一対置かれた椅子に腰かける。浴室の準備ができるまで、二人は無言のままだった。

 風呂の支度ができたと稲葉江に知らされた後、はバスルームでシャワーを浴びた。
 ヘアセットを解くと、髪の毛からは次から次へとピンが出てくる。全て外し終えると整髪料で固められた髪は凄まじい形にうねっていた。
 何があるかわからないからと入念に体を洗い、高級そうな横文字のロゴが入ったアメニティでスキンケアをし、歯磨きも済ませ、時間を稼ぐように丹念に髪を乾かす。ラックに置かれたパジャマが前ボタン式のものだったので、それっぽいガウンじゃなくてよかった、と彼女は安堵した。
「上がったよ……」
 椅子で足を組んでいた稲葉江は、知らぬ間にネクタイを解きシャツの前を寛げていた。日頃あれだけ肉体を晒しているというのに、顕になった鎖骨を目にし、は見てはいけないものを見てしまった気分になる。
 彼女の後に稲葉江がバスルームに入ってから、「髪の毛とか落ちてないかもっとちゃんと見とけばよかったかも」と後悔した。日頃同じ屋根の下で寝起きしているというのに、こんな時になって些細なことが気になってしまう。
 スイートルームに一人取り残されたは欲を抑えきれず、身を清める前は汚れてしまう気がして遠慮がちに座っていたキングサイズの広いベッドに飛び込んだ。
 ふっかりと羽毛が身体の形を覚えて沈み、少しひんやりした肌触りの良いシーツが湯上りの熱った体に触れると心地が良い。が大の字になってもまだゆとりがあって、「これなら二人でも眠れそう」と考え、はまた顔を赤くした。
 目を閉じて耳をすませると、稲葉江が浴びているシャワーの水音が微かに聞こえる。は稲葉江がいつバスルームから出てくるか気が気でなかった。
 しかし、寝心地のいいベッドに横になっていると意思に反して瞼が重くなってくる。早い時間から支度を始めた上に、長い間立ちっぱなしのまま知らない人と話し倒しだったせいか精神的にも肉体的にも疲労が蓄積していた。
 ここで寝たら女としてまずい気がする、と思いながらも、睡魔に抗えない。少し目を瞑るだけ、と自らを甘やかしたが最後、は深い眠りに落ちていった。

 彼女がはっと目を覚ますと、あたりは真っ暗だ。掛け布団の重みから、ここがの寝室ではないことを思い出す。
 ——そうだ、確かあのまま寝てしまって……。
 暗闇に目が慣れた頃、は自らの体を確かめた。脱がされた形跡はなく、それどころか掛け布団の上に倒れ込むように眠っていたはずが、いつの間にか肩まで被って枕にきちんと頭を乗せて横になっていた。
 隣を見ると、仰向けの稲葉江が少し距離を空けて静かに眠っている。撫で付けられていた髪は額に落ちて、普段整えられたそれがうねりを帯びているのが印象的だった。
 バスルームを出て力尽きた自分がベッドで大の字になっているのを見て、稲葉江はどう思っただろうとは想像した。
 彼のことだからきっと、呆れ果てた後にその身を抱え、正しく寝かしつけたはずだ。身体を冷やさぬようしっかり掛け布団を肩まで掛けて、きっといつか微睡の中で見せた、らしくない表情を浮かべて。
「……稲葉って私のこと好きじゃん」
 一人呟いた言葉に返事はない。稲葉江はの思いも知らぬまま、規則正しく胸を上下させている。
 は言いようのない幸福感に包まれ、今度は稲葉江の半身にそっと身を寄り添わせるようにして、再び布団に潜った。これまで感じたことのない感情に溺れるのは恐ろしくもあったが、今はその緊張感すら愛おしい。
 筋肉質な腕と胸から伝わる体温が、を再び眠りへと導いた。

 が再び目を覚ました時には、部屋のカーテンも開け放たれすっかり日が昇っていた。
 シャツとボトムだけを着た稲葉江が、ベッドに座ってを見ている。急にパチリと目を開いた彼女に、彼は驚いたらしかった。
「起きたか」
「おはよう……」
 もぞもぞと布団から這い出てヘッドボードの時計を見ると、八時を回っている。寝顔を見ていることに気付かれたのが気まずかったのか、稲葉江はベッドから立ち上がり窓辺の椅子へと移動した。
「……稲葉、なんもしなかったの?」
「寝込みを襲う趣味はない」
「………」
 のあけすけな質問に、稲葉江は心外だと言わんばかりに低い声で答えた。
 は「稲葉って襲うとか言うんだ」と思いながら、その言葉が偽りであると気付く。否、その言葉自体は本心であろう。ただ、彼はが起きていようとその身を暴くことをしなかったはずだ。
 長船仕込みのきざな台詞は慣れない場所と履き慣れない靴にくたびれた彼女を休ませるための方便であったことを、彼女は了していた。己の欲を貫くどころか、戦火など忘れたように気の抜けた顔で眠っている彼女を叩き起こすこともできない、途方もなく優しい男だと知っているので。
 用意周到な松井江はモーニングまで予約してくれていたらしい。ホテルの従業員から案内を受けて、と稲葉江は揃ってモーニングビュッフェを楽しんだ。
 調子に乗って次から次へと目についた料理すべてを皿に乗せるを稲葉江が咎めたが、彼女はひとつも聞き入れない。パーティと違い緊張感もない中舌鼓を打ったホテルの料理はどれも美味だったが、8割ほど食べ切ったところで彼女は案の定「お腹が苦しい」と言い出した。
 無理に詰め込もうとするの代わりに稲葉江がフルーツヨーグルトやフレンチトーストを食べる羽目になり、彼は不得意な甘味に眉を顰めながら完食した。

 昼前にふたりは本丸へと戻った。が自室で荷物を下ろしにいくと、乱藤四郎と燭台切光忠が彼女を待っていた。
「ねえねえっ! どうだった? 楽しかった?」
 乱藤四郎は期待を隠さぬキラキラした瞳をに向けて訊ねる。そのすぐ隣で燭台切光忠も好奇心を隠さず微笑んでいた。
「退屈なパーティの参考にはなったかな。うちでパーティするときはビンゴ大会開こうと思ったね」
「ビンゴ大会?」
 脈絡のないその返事に、乱藤四郎と燭台切光忠の声が重なる。は稲葉江と二人で過ごした時間を思い出し、これ以上は語るまいと頭を横に振った。
「……なんでもない! 二人が思ってるようなことは起きてないから!」
 は逃げるように自室を出てぱたぱたと廊下を駆けて行く。
 残された二振りは、ぽかんと顔を見合わせた。見るからに何かはあったリアクションだ。ただ、確信には至っていないらしい。もどかしい二人を見守る時間はこれからも続きそうだと、彼らは微笑み合う。
「はーあ、どう見ても両想いなんだから早くくっついちゃえばいいのにっ」
 乱藤四郎の言葉に、燭台切光忠は苦笑混じりに同意した。


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