結んであげる

 本丸の廊下は、どれほど慎重に歩いてもトトトと軽い足音が立つ。しかし刀剣男士らは、どんなに大柄な者であろうとその気になれば音もなく歩いてみせるのだから不思議だ。  が閉ざされた襖越しに部屋の前に立つと、声をかけるまでもなくひとりでに襖が開いた。  彼らは今代の主を何事からも護るため、の足音を聞き分けて、その行動に気を配っている。審神者になったばかりの頃は、一挙一動を見張られているように感じられて、少しだけ居心地が悪かった。  それが気にならなくなった今、少しはこの立場に慣れてきたのだろうか——なんて、些細なことから時の流れを実感する。審神者に就任して、三年目のことだった。  横に滑った襖の奥、部屋の中に視線をやる。そこにいたのは後家兼光と姫鶴一文字だった。  襖を開けたのは姫鶴一文字の方で、座布団の上に座ったまま襖に手を伸ばしたため、四つん這いの状態になっている。その後ろに座る後家兼光の片手にはヘアブラシ、もう片方の手は姫鶴一文字の髪を束ねていた。  後家兼光はと目が合うとヘアブラシを持った手をひらりと振った。は会釈を返し、体を起こして座り直した姫鶴一文字に視線を落とした。 「ん、なんか用事?」 「探し物してて。この辺でヘアゴム見てない? 白いふわふわのついたやつ」 「これかな? 机の下に落ちてたよ」  答えたのは後家兼光だ。彼が一瞥した先、座卓の上にはの私物であるヘアゴムがあった。  この二振りも含め、本丸には髪の長い刀剣男士が多い。誰のものかわからず、一旦目立つところに置いておいた、という様子だった。 「あ、よかった。ありがとう」  は礼を言い、拾い上げたヘアゴムを手首に通した。  後家兼光は止めていた手を動かし、姫鶴一文字の髪をブラシで梳いた。それからオイルをつけ、赤い髪紐で高い位置にひとまとめに結い上げる。手慣れた手つきと手際の良さ、そして揺れる長い髪には目を奪われていた。  完成の合図に後家兼光が姫鶴一文字の肩を叩く。姫鶴一文字は手鏡で仕上がりを確認した後、不意にに目をやった。 「……なーに、じろじろ見て」 「っ、ご、ごめん!」 「んなビビんなくても」  姫鶴一文字に見つめ返されたは、不躾な視線を咎められたような気分になって取り乱した。大袈裟に狼狽えた彼女を見て、二振りが笑みをこぼす。気恥ずかしさに俯くと、肩から滑った髪が顔を隠した。 「主もやったげようか?」 「えっ」 「ん、いいんじゃない? ごっちん上手いよ」  後家兼光の提案にが返事をするより前に、姫鶴一文字は座布団の上から退いて「どーぞ」とに席を譲った。後家兼光は人懐っこい笑みを浮かべ、手招きをするようにブラシを持った手を振る。  こうなると断るのも妙な空気になる気がして、はおずおずと姫鶴一文字の温もりが残る座布団の上に腰を下ろした。 「髪型はどうする?」 「おまかせで……」 「じゃあおつうと一緒でいいかな」  後家兼光は姫鶴一文字にしていたのと同じように、の髪を梳いた。  他人に髪を触れられる機会など、たまの美容室やハレの日のヘアセットくらいのものだ。は慣れない感覚に肩を強張らせた。  が後家兼光に髪を任せている間、姫鶴一文字は座卓に頬杖をついてその様子を——というよりは、の顔をじっと見つめていた。  借りてきた猫のように大人しくなったを面白がっているのか、はたまた別の理由か。その表情は柔らかく、その眼差しが殊更に緊張を与える。 「主、髪留めもらっていい? あと油つけても大丈夫?」 「う、うん。大丈夫」  髪を梳かし終えた後家兼光に、は手首に通していたヘアゴムを手渡した。  後家兼光が手に整髪用のオイルを出すと、清潔さと華やかさが共存した精油の香りがふわりと漂う。その香りが鼻腔を掠め、の心臓がどくんと弾んだ。 「これって、ごっちんの私物?」 「一応そうだけど、おつう用だね。ボクのは別にあるよ」 「そうなんだ……」  途端に主張し始めた鼓動に目を背け、姫鶴一文字からの視線に気を取られないよう平静を保つこと数分。「かーんせい」と後家兼光が肩を叩いた。手鏡を借りて仕上がりを確認すると、確かに自分で雑に結ったポニーテールとはまるで違う仕上がりだ。単純な髪型ながら、左右に傾くことも弛むこともなく、綺麗にまとめられていた。 「すごいね、本当に上手。ありがとう」 「どーいたしまして。主もどうぞご贔屓に」 「あはは、また頼もうかな」  ちらりと壁掛け時計を見上げると、次の任務に関する軍議の時間が迫っている。審神者は座布団から腰を上げ、廊下へと出た。襖を開く前にもう一度お礼を言おうと振り返ると、姫鶴一文字と視線が重なる。彼はゆるく開いた唇で、ぱくぱくと音にならない言葉を紡いだ。 『おそろい』  自身の髪に触れながらだけに向けたその一言に、顔が紅潮する。しかし髪は結い上げてしまったから、俯いて隠すことも儘ならない。は小走りでその場を後にした。 「おつう、やるねー」 「はは、かあいいね」  部屋に残った二人の反応も知らないまま。  頭の向きを変えるたびに結い上げた髪が揺れ、ヘアオイルの香りが微かに香る。その度に姫鶴一文字の顔を思い出すので、軍議だというのに気が散って仕方がない。具合でも悪いのかと誤解され、必死に誤魔化しながら、は何とかその場を切り抜けた。  日が落ち、夜も更けた頃。綺麗なポニーテールを惜しく思いながら、髪ゴムを外しは髪を解く。シャワーを浴びると、ヘアオイルの香りは嗅ぎ慣れたトリートメントの香りにすっかり上書きされてしまった。  ドライヤーで髪を乾かしたあと、は鏡に向き合いながら後家兼光にしてもらったように髪を結った。しかしあの完璧な仕上がりを見た後だと、歪に見えてしまう。手先が器用な彼だから、姫鶴一文字は髪の手入れを任せているのだろう。  ——羨ましいな。  日中、彼らを見た際に無理矢理押し込めた感情が湧き上がる。互いに気を許し合っているからこその距離に、は憧れた。  姫鶴一文字の鳥の翼を思わせる長く美しい髪は、いつだっての目を引いた。髪だけではない。彼の一挙一動、一言ですら全て気にかかってしまう。  そう、今日だって。  音にこそならなかった一言を思い出すだけで、またどきりと体温が上がっていく。 「……ダメだ、寝よう」  姫鶴一文字への悶々とした想いで胸の内がいっぱいになり、どうしようもなくなった審神者は、眠るには少し早い時間ながらベッドへと入った。  暖かい羽毛布団の重みに身を委ねていると、あっという間に眠気が襲ってくる。意識を落とす間際、洗い流したはずのあの香りが微かに漂っているような錯覚を覚えた。  夢の始まりとは、得てして曖昧なものである。  場所は、がかつて一人で暮らしていたワンルームマンションだった。狭いなりにインテリアには気を使って、自画自賛ながら良い部屋だと思っていたが、審神者になる以前の私物を本丸に持ち込むには面倒な手続きが色々あって、ほとんど手放してしまったという経緯がある。  カーテンと色調を揃えた寝具は、インテリアの中でも特にお気に入りだった。はのそりとベッドから上体を起こす。すると、頭上から声が落ちた。 「ん、起きた?」 「わっ!?」  最初に部屋を見渡した時には確実にいなかったはずの存在が、そこに立っていた。  姫鶴一文字だ。本丸で見るノースリーブのインナーに一文字揃いのジャージを肩掛けしている。軽く結った髪を肩にかけて、首を傾げるとそれが僅かに滑った。 「ひ、姫鶴?」 「ん、ここ……主の夢ん中だよね」 「夢……そっか、夢か」  そう認識したのが夢の中のなのか、眠っているなのか。それすら曖昧なまま、彼女は頷く。  あの部屋はもう存在しないし、ここに姫鶴一文字がいることなんて万が一にもあり得ないのだ。チグハグな状況はやはり夢の中でしか起こり得ることはない。 「そ、夢。だから主のしたいことなんでもできるよ」 「え……?」  姫鶴一文字はの隣、ベッドに腰掛けた。上体を乗り出して、顔を寄せる。寝起きで——これもまた夢の中なので、おかしな話だが——頭が回らず、眼前に迫った非現実的な美貌を見つめることしかできない。 「たとえば、おれの髪を梳くとか」 「っ」 「おれが主の髪を結ってあげるとか?」  姫鶴一文字の手が、寝起きのまま肩に散らばったの髪を掬い上げる。夢の中とはいえ寝起きの見窄らしい姿だということを思い出し、さっと俯いて顔を赤らめた。 「照れてる」 「いやこれは、寝起きでぼさぼさなのを見られたからで」 「んー? 寝起きの主もかあいいよ」 「っ」  慌ててその場凌ぎに手癖で髪を整えると、姫鶴一文字からは衝撃的な言葉が飛び出してきた。しどろもどろになったを見て、姫鶴一文字は喉を鳴らして笑った。  古来より『夢』という現象には、様々な意味づけがされている。焦がれる相手が夢に出てきた時、かつては相手が自分に会いたがっているとされていたが、後の世では逆だと考えられていただとか、進むべき未来を示す予知であるとか。ただの思考の整理に過ぎないだとか。  そのどれが当てはまったとしても、姫鶴一文字が夢に出て、審神者が望むように振る舞うというだけで彼女には大きな意味があった。眠っても意識から離れないほどに日中の出来事が印象に残っていて、尚且つ彼に焦がれて堪らなかったのだ。  脳内で作り出した存在とはいえ、〝彼〟への罪悪感が募る。しかし甘い誘惑には抗い難い。目の前の姫鶴一文字が言うように、夢の中だからこそ現実では出来ないことをこの機会に叶えるべきじゃないか、なんて好奇心に唆された。 「じゃあ……私も、姫鶴の髪の毛触ってみたい」 「どーぞ。ごっちんはおれの髪梳くのが好きだから勝手にやってるけど、ごっちん専用ってわけじゃねーから」 「でも、夜に自分で結ってみてわかったんだ。やっぱごっちんくらい上手じゃないと……こう、恐れ多いって言うか」  尻込みする審神者を横に、まるで聞いていませんと言わんばかりに姫鶴一文字は部屋の端にある小型のドレッサーチェアに腰を下ろした。  女性ひとり座るにも少し小さいサイズのそれは、姫鶴一文字が腰掛けるには心許ない。足は余って、長く投げ出されていた。  共に過ごすことの多い後家兼光や、他の一文字の刀と見比べてつい忘れてしまいがちだが、姫鶴一文字は中性的で整った顔に似合わず立派な体格をしている。必要最低限の間取りにいると、それがより際立った。  ——大きい。  体格の男らしさを強く実感して胸の疼きに唇を噤んでいると、姫鶴一文字が顎の動きで「はやく」と促す。は姫鶴一文字の背後に立った。 「失礼します……」  しなやかな長い髪はすらりと伸びて乱れることはなく、まるで一枚の絹のようだ。審神者は恐る恐る髪紐を解き、後家兼光の手法を真似て髪を梳きはじめた。  姫鶴一文字の髪はブラッシングの必要もない程に絡まりもなく、気持ち良くブラシが通り過ぎる。その手触りには確かにどこか心を落ち着かせる効果があって、後家兼光がやりたがるのも理解できると審神者は納得した。 「ヘアオイル……これ、昼間使ってたやつかな」  審神者がかつてケア用品を並べていた棚には、見慣れないボトルが収まっていた。昨日、後家兼光が使っていたヘアオイルだ。手に出してみると、香りやとろみも全く同じものだった。  非現実的な状況に「夢だから」と疑問を飲み込み、ヘアオイルを姫鶴一文字の髪に馴染ませる。いつもの自分の髪の感覚で出すと、長くて量の多い姫鶴一文字の髪にはすぐに吸い上げげられてしまって、はまたポンプをプッシュした。  ふわりと香る匂いは、昨日の髪に塗布されたものと同じはずだ。しかしその奥に、の鼻は何か別の香りを嗅ぎ当てる。その香りは、姫鶴一文字自身の髪から香っていた。  オイルの華やかな香りにその香りが混じって、髪を揺らすたびに香りが広がる。どくどく、と速まる鼓動を深い呼吸で押しつけて、アクセサリーラックに引っかかっていたシュシュを手に取り髪を束ねた。  しかし、後家兼光のように上手くポニーテールらしい形にならない。姫鶴一文字の髪はその質量に見合った重みがあって、の力で縛っただけではすぐに弛んで落ちてきてしまった。結局、仕上がったのは首の後ろで結んだだけのローポニーテールだ。 「ごめん、やっぱりごっちんみたいに上手くできなかった……」 「ん、いいんじゃない」  想像通りとはいかず肩を落とすと対照的に、姫鶴一文字は満足気だ。首を左右に揺らし、ドレッサーの鏡で仕上がりを確認している。  姫鶴一文字の髪を束ねているものは、現実世界で今もが愛用しているものだ。白のチュールに銀色が編み込まれた布は、彼の髪によく馴染んだ。こんなに似合うならプレゼントしようかな、なんて思うほどに。 「じゃー交代ね」 「え?」  姫鶴一文字は小さなドレッサーチェアから立ち上がると、肩を掴んでをそこに座らせた。尻に当たる硬い感触は、学生時代毎日座っていた安い椅子のもので、束の間は懐かしさに浸った。  向き合った鏡には、寝起きのの髪に触れる姫鶴一文字が写っている。その表情は楽し気で、今にも鼻歌を歌い出しそうなほどだ。 「髪質は……ちょっとけんけんに似てるね」 「そうかな……」 「うん。柔らかくてかあいいよ」 「………」  その言葉が向けられた先が謙信景光だとしても、髪質に対してだったとしても、姫鶴一文字によって紡がれるだけでは平常心ではいられなかった。  鏡に映る自分の口元がモゴモゴと不格好に歪む。にやけを隠そうとして不自然に口を曲げていた。  今は目の前に鏡があるから気付けたものの、日頃から姫鶴一文字の前でこんな顔をしていたのだろうか? は急に不安に襲われた。  が口角を横に引っ張って必死に取り繕おうとしているうちに、姫鶴一文字はあっという間に審神者の髪を結い上げてしまった。 「でーきた。ごっちんほど……とはいかないか」 「そんなことない、少なくとも私よりは上手」 「ん、ならいーや」  せっかくの機会だというのに気がそぞろになってしまったことを惜しみつつ、先ほど姫鶴一文字がしていたように髪型を確かめる。姫鶴一文字は後家兼光に敵わないと思っているようだが、からしてみればどちらも遜色ない仕上がりだった。 「あ、ちょい待ち。仕上げ忘れてた」 「仕上げ?」 「ん。目ぇ、瞑って」  鏡越しに目があった姫鶴一文字にそう指示され、は言われるがまま瞼を下ろした。暗闇の中、彼の気配を背後に感じる。  ——仕上げってなんだろう?  何か整髪剤を塗布されている気配はない。神経を研ぎ澄ませ姫鶴一文字の動きを感じ取ろうとしていると、髪の結び目に何か柔らかいものが触れた。指先に似たその感触は、あっという間に後頭部から離れていく。 「はい、おわり」  声が耳元すぐそばで聞こえて、思いがけず近い距離で囁かれたことに、は僅かに肩を跳ねさせた。 「仕上げって、なに?」 「おまじない……いや、虫除け?」 「虫?」 「……そろそろ朝っぽい」  夢の中の景色は日中らしい陽射しが差し込むワンルームのままで、空の色に変化は見えない。しかし夢にまつわる物語を持つ姫鶴一文字には、には感じ取れない何かが見えているのだろう。  たとえひとときの夢だとしても。そしてこの姫鶴一文字が本物ではなく、が頭に思い描いた理想の塊だとしても。この時間を忘れてしまうことを、はひどく惜しんだ。 「もし、起きてこのことをまだ覚えてたら……今度はおれが髪を結ってあげる」 「え、姫鶴……?」 「じゃーね、おやすみ」  舞台が暗転するように、そこで視界はぷつんと途切れた。  心地よい暗闇に揺らされているうち、意識が浮上する。頭は既に目覚めていて、けれど身体はまだ目覚めたくないと抗っていた。  しかし、アラームの音が耳に届くと、身体は自然に起床の支度を始める。ゆっくりと瞼を上げると、そこは懐かしいワンルーム——ではなく、本丸のの寝室が広がっていた。 「……………」  やけにリアルな夢だった。手には姫鶴一文字の髪の重みが、頭皮には姫鶴一文字に触れられた感触が未だ残っている。  は何気なく、手櫛を乱れた髪に通した。 「っ」  広がった髪から何かが香る。湯上がりに髪を乾かす前につけたヘアミルクの甘い香りとは別の、どこかで——そう、夢の中で嗅いだ香りだ。後家兼光が姫鶴一文字のために用意したヘアオイルの中に、彼自身の香りが混じったもの。  しつこく居残ろうとしていた眠気はたちまち消え失せて、は慌てて鏡を見た。  顔を洗って目を擦っても、鏡に映るのはぼさぼさの髪の寝起きの自分だけだ。それでも何か確信めいたものがあって、は急いで身支度に入った。  朝食の席で彼を探して、言わなければいけないことがあったから。

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