今夜、期待してて。

   午後三時。「そろそろ一息入れようか」と茶菓子を取りに部屋を出た近侍と入れ替わりに執務室を訪ねてきたのは、後家兼光だった。  捲ったジャージの袖から伸びた腕の先は、革手袋ではなく使い捨てのゴム手袋に包まれている。大方、夕飯の仕込みでもしていたのだろう。  後家兼光は、の顔を見るなりふにゃりと表情を緩めた。脱いだ手袋を裏返したままポケットに乱雑に突っ込み、大きく両腕を広げる。は辺りを見渡し、近侍が戻る気配がないことを確かめてから、おずおずとその腕の中に飛び込んだ。  後家兼光はもう逃さないと言わんばかりに、をがっしりときつく抱擁する。顔を胸板で押し潰そうとするかのような力強さ、そしてその厚みと弾力には動揺し、距離を取ろうと軽く押し返したが、びくともしなかった。  後家兼光はの頭頂部に額をすり寄せて、深呼吸をした。すぐそばに聞こえる呼吸音に、吸われている——と、は複雑な思いを抱く。ついさっき空調効いていない資料室で探し物をしたところなので、匂いが気に掛かっていた。しかし、後家兼光は多忙な中で仕事の合間を縫って会いに来てくれたのだ。そんな恋人に冷たい言葉を浴びせるのは躊躇われ、黙ったまま抱擁を受け入れていた。 「お疲れ様」 「ん、キミもね」  審神者の仕事は多岐に渡る。時間遡行軍との戦いだけでなく、多数の刀剣男士を束ね、その暮らしを監督しなくてはならないのだ。本丸の規模が大きくなるにつれ、彼女の負担は増す一方だった。  刀剣男士の数が八十を超えた頃、彼女の睡眠不足を案じた刀剣男士らは、大規模な業務改革を行なった。実務に向いたものを選び出し、適材適所に振り分ける。刀剣男士らに一部の仕事を任せることで、の負担は大幅に軽減された。  後家兼光は器用な男だ。身内の役に立つのが好きで、手隙を嫌う。彼は刀剣男士として歴史を守る任務の傍ら、厨部隊として食の面で本丸を支え、経理部にも顔を出していた。少しでも時間が出来ると上杉の面々を中心にあれやこれやと世話を焼いて、短刀の遊び相手になっている姿もよく目にする。そして、の恋人としての時間を作ることも欠かさない。  こんな生活で、一体いつ休息を取っているのだろう。はずっと、不思議に思っていた。  心身ともに活力に漲った男だが、いくら刀剣男士といえど無尽蔵ではない。その証拠に、今日の後家兼光の目元には、少しだけ疲れの色が見えた。  頼り甲斐がある上に世話焼きな彼だ。知らず知らずのうちに手が回らなくなってしまわないだろうか。無理せずゆっくり休ませてあげたほうがいいのでは——  心配になったは、先ほどより強く胸を押す。何かを察した後家兼光は、腕の力を緩めた。  の顔を見下ろす浅葱鼠の瞳が、愛おしげに細められる。視線が交わると、彼は誘うように深く瞬きをしてから、瞳を閉じて顔を寄せた。 「主……」  それを見たは、すかさず後家兼光から身体を離し、色っぽい空気を断つようにわざと声を張った。 「ごっちん、最近忙しそうだけど……無理してない?」 「ん?」  期待外れを隠さぬ表情で、後家兼光は唇を尖らせた。  の問いに、一体何のこと? と、小首を傾げる。大男に不釣り合いなはずの愛らしい仕草は、端正でありながら愛嬌のある造形をした顔立ちのせいか、妙に様になっていた。 「無理? してないしてない。なーに、ごっちんのこと心配してくれてる?」 「ちょっと疲れてそうに見えたから。っていうか、心配するでしょ。任務も行ってご飯も作って、仕事も手伝ってくれてるみたいだし、空いてる時間はちっちゃい子達と遊んで……」 「好きなんだ、あれこれ忙しくするの。それにほら、前にキミとおつうに怒られてから、怪我してる時はちゃーんと休むようにしてるからさ。だいじょーぶ」 「それは……うん、守ってくれてるならいいんだけど」  後家兼光の顔に疲れが見えたのは確かだが、彼の言葉は空元気というわけでもなさそうだ。  おそらく、どちらも真実なのだ。多少の疲労はあれど、周囲を守り、支え、頼りにされることを心から望んでいる。放っておかれて暇だと嘆くよりは、こちらの方が性に合っているらしい。  それでもの胸には、言葉にし難い蟠りが残ったままだった。  納得してくれた? とでも言いたげに、後家兼光の視線がの表情を探る。その仕草はどこか落ち着きがなく、〝待て〟を命じられた犬のようだった。  素直に頷けないは未だ腑に落ちないまま、彼の豊かな胸板に視線を逃していた。  次第に、後家兼光は退屈そうにの後頭部で指を遊ばせ始めた。跳ねた髪を整える名目で、頭皮を擽る。その動きにまだ高い陽の光に不釣り合いな気配を感じて、は頭を振った。  ——ああ、これかもしれない。  ひとり得心したは、後家兼光の顔を見上げた。 「あの、こうやってね、会いに来てくれるのは嬉しいんだけど……無理して来なくていいからね」 「なしてそんなこと言うの」 「ごっちんがみんなのために働くのが好きなのはわかった。でも、私まで負担になりたくないからさ」  の後頭部で踊っていた指が、ぴたりと動きを止めた。  後家兼光の緩んでいた口元は、静かに引き絞られている。瞬間、走った沈黙に、はしまったと後悔した。  後家兼光は多弁な男で、考えていることをあれやこれやと精査することなく口に出す。昔馴染みからしつこく咎められる悪い癖だが、それが止んだ時こそ真に気を留めねばならぬ瞬間である——とは、その昔馴染みから聞かされたことだった。  何か言わなくては——が気まずさを誤魔化すための曖昧な笑みを貼り付けた唇で言葉を迷う最中、先に言葉を発したのは後家兼光だった。 「負担じゃない」 「う、うん。ごめん」 「主はボクが無理して、キミのために時間を作って来てると思ってた?」  いつもの弾むような口調とは全く異なる、つらつらと畳み掛けるような声だった。はそれに僅かに怯み、唇を閉ざしたまま頷いた。 「違うよ、そうじゃない。うん、全部違う……って言ってしまうと、ちょっと傷つくけど。キミがボクに会いたがっていて欲しいって願望は勿論あるからね。でも、一番そうしたいのはボクだ」 「う、」 「ボクはここが好き。上杉の子達だけじゃなく、みんなが飢えることなくお腹いっぱい食べて、幸せそうに笑っていて。そんな場所を作ってくれるキミだから、好きになったんだ。好きな人に——愛している相手に少しでも会いたい、顔を見たいと思うのは、自然なことだよね」 「はひ」 「それを、……心外だなぁ」  言葉が僅かに、いつもの調子を取り戻す。それと同時に、つつつ、と立ち止まっていた指が再び動き出した。  指先はの後頭部の丸みを滑ると、それはうなじへと至った。  漏れそうになった悲鳴をなんとか喉に押し留める。首の裏の骨を伝ったそれは、服の襟元を彷徨って、爪先だけをその中に忍び込ませた。 「ご、」 「……これでも我慢してるんだ。キミはボクだけの主じゃないから」 「……」 「その気になれば、キミといられる時間は今よりも増やせる。それこそ、夜ならもっと、たくさん」 「っ、」 「だから、無理してる……だなんて、冗談でも言われたくないな」  後家兼光で埋まった視界の奥から、小さな足音が聞こえた。聞き慣れた規則正しいそれは、近侍のものだ。いくら彼との関係を明かしているといえど、職務の真っ最中に逢引しているところを見られるのは主として面目が立たない。  この話はもう切り上げなくてはならない。の焦燥を帯びた表情から後家兼光もそれを察したようで、熱を帯びた指先はすっとから離れていった。 「ごめん、また余計なことを言い過ぎた」 「う、ううん。私こそ、ごめん」  後家兼光は名残惜しそうに、の米神に唇を僅かに寄せる。小さな口付けを落としたのち、主従の仲に必要なだけの距離を取った。  足音は、すぐそこの廊下の角までさしかかっている。後家兼光はポケットからゴム手袋を出しながら、更に一歩距離を広げた。 「ごっちん」   は足音に急かされるようにして、口を開いた。 「夜、だったら……時間、もっと作れるってほんと?」 「主、お待たせ。……おや、後家兼光?」  タイムリミットだ。盆を持った近侍がやってきて、不思議そうにと後家兼光を見比べた。は早鐘を打つ心臓を宥めながら、平静を装い近侍に顔を向けた。 「主に何か?」 「いや、もう用は済んだ。じゃあ、主、ボクは仕込みに戻るよ」 「う、うん。晩御飯、楽しみにしてるね」 「ああ、そう。さっきの件だけど、」  ——今夜、期待してて。  囁き声は、の耳だけに届いた。  後家兼光はひらりと手を振って、長い髪を揺らしながら執務室を離れていく。近侍に再び声をかけられるまで、はその背中から目が離せなかった。

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