Sink

こっちの気も知らないで!

 言い訳するならば、『つい手が出た』。これ以外、ペパーは申し開きのしようもなく、しばらく硬直したままでいた。

 普段、ライドポケモンに跨ってパルデア中を駆け回る多忙な友人から、珍しく連絡が入った。ポケモンリーグも注目する新進気鋭のチャンピオン、だ。大業な肩書こそついているものの、ペパーにとっては『なんでもイエスちゃん』でちょっとお人好し過ぎるところのある年下の友達である。
 かつてペパーは彼女の実力を見込んであるお願いをした。相棒であるマフィティフの元気を取り戻すため、パルデア各地に存在するというひでんスパイスを探す手伝いだ。その過程でペパーは彼女に得意の手料理を振る舞い、それを気に入った彼女は以降、スパイス探しを終えた後も定期的に食べたいとリクエストを寄越すようになったのである。
 ペパーにとって、は大切な友人兼恩人だ。断る理由もないし、食事を取るなら一人より二人がいいに決まっている。
 その日、学生寮のペパーの部屋で夕食を共にすることになっていた。
 風紀の乱れを気にする教師陣に見つからないよう、こっそりと彼女を部屋へ案内する。彼女を部屋へ上げるのは一度や二度目ではない。しかし学年も学部も違えば雰囲気も異なるのか、何度やってきてもは道中どこか緊張した面持ちだ。部屋へ足を踏み入れて扉を閉めると同時に、ようやく安心できるという風に深呼吸をする。
 は部屋でペパーが料理をする傍ら、その様子を眺めたり、道具の整理をしていた。最初こそ何か手伝うべきかと手持ち無沙汰にソワソワしていたものの、食事会を重ねるごとに無理に手伝おうとするほうが時間のムダと気が付いたようだ。今では自室のようにリラックスして自由に過ごしている。ペパーはそんな穏やかな空気を気に入っていた。

 事が起きたのは完成した料理の盛り付けに差し掛かろうというタイミングであった。
 ペパーの鼻歌を遮るように、校内放送がかかる。生徒の呼び出しだ。「先生たちはこんな時間までお仕事ちゃんか」なんて聞き流そうとしていたペパーは、その放送が自身を呼び出すためのものであると気付き、皿を取り落としそうになった。
 担任教師の声で、わざわざ『至急』とまでつけて呼び出されている。心当たりのあったペパーは腹の中が気持ち悪くなるのを感じながら、視線を皿からのほうへとスライドさせた。
「ペパー、呼ばれてるけど」
「あー……。アレだな、たぶん。今日提出したレポート……」
 ペパーの顔色がたちまち悪くなる。
 アカデミーでの成績は、宝探しなどのフィールドワークの実績に加え、座学とペーパーテストによってつけられる。バトルが苦手で座学の成績も奮わないペパーは、レポートの不備一つで進級すら危ぶまれるのだ。
「悪いな、ちょっと出てくる。すぐに戻る……と、思う。タブン。
「う、うん。悪い呼び出しじゃないといいね」
「おー……」
 空腹とこれから間違いなく教師に詰められるのだろうなという不安で胃を痛めながら、ペパーはに断って部屋を出た。

 結論から言えば、ペパーは大いに肩透かしを食らった。
 レポートの出来がひどすぎるから受け取れないとまで言われるのではないかと恐る恐る踏み込んだ職員室では、担任教師がコーヒーを飲みながら「おお、来たか」とのんきな様子で待っていた。
 聞けばちょっとした事務的な不備があっただけなのだという。「だったら至急だなんて大げさちゃんなこと言うな」と内心思いながら、ペパーはさっさと必要箇所の記入を済ませた。それを見届けると担任教師も帰り支度を始めたので、おそらく「早く帰りたいから至急」だったのだろうと察する。ペパーは脱力し、すぐに職員室を出て、半ば小走りで自身の部屋へと向かった。
 とにかく空腹だったし、よそわれるのを待つ出来立ての料理の香りを鼻がしっかり覚えているのだ。何より、が待っている。
 ペパーがノックもせずに鍵を開けっぱなしの自室の扉を開くと、入ってすぐのキッチン前でが待っていた。
 扉が開く勢いに驚いたのか、目を丸くしている。完全にリラックスモードに入っていたのか、いつの間にか〝いつものみつあみ〟を解いていた。
 それから彼女はペパーの元に駈け寄って、何気ない様子で言った。
「おかえり」と。
 ――声を聴いた瞬間、衝動的に体が動いていた。
 腕を伸ばして、の体を捕まえる。部屋の扉を閉めるより先に、彼女を抱きしめていた。
それから行動よりもずっと遅れて、自分が何をしているのか――してしまったのか、ようやく気が付いた。
 血の気の引いていく感覚と共に、腕の中の温もりを強く感じる。同じ制服の手触りすら、まったく違ったものに感じられるほどに、それに包まれた体が小さかった。
 離さなければ。そう思うのに、腕が彼女を閉じ込める形のままから動かない。
「ペパーどうしたの? とりあえずドア閉めようよ」
「………………え?」
「いや、え? じゃなくて。ごはん、冷めちゃうし」
 自身の行動にまだ理解が追い付かないペパーの腕をするりと抜けて、は扉を閉めた。
 体が触れていた部分が、どこか冷たく感じる。ペパーは浮いたままだった腕を一先ずおろして、機械的に料理の盛り付けを再開した。急いで戻ってきたこともあって、まだスープには湯気が立っている。
 片親を失い、唯一の肉親ですら滅多に会うことが許されなかったペパーは、家族の愛情に飢えていた。それを埋めてくれたのがマフィティフの存在で、それすら失いかけた彼を絶望から救ってくれたのがだ。
 二人の間には間違いなく、強い絆がある。しかしそれは本来、友情とラベリングされているもののはずだ。共に苦難を乗り越えた仲であり、〝そういうの〟とは全く別物であるとペパーは認識していたのである。否、そうとしか認識出来ていなかった。
 彼にとって恋だの愛だのは世間で流行ってる映画だとかドラマだとかの世界で起きていることだったから。性欲や異性への興味こそあれど、自分の生活と地続きになっているものだとは思っていなかった。
 しかしそれを、突然目の前に突き付けられたのである。衝動的に体が動いてしまうほどに、今この瞬間、のことが愛しくてたまらなくなった。
 最後におかえりなんて言われたのは、いったい何年前のことだろうか。寮に入ってからは間違いなく一度も言われたことはない。親と暮らしていた頃も、研究の邪魔にならないようにと何気ない挨拶すらまともにできていなかった。
 家で母が待っているにとっては、日常的な挨拶なのだろう。その一言は、ペパーにとって魔法のような響きであった。
 ずっと埋まらなかった心の穴に、何かが満ちていく感覚がある。ずっと満たしていたいと、この瞬間強く思ったのだ。
 これほどまでに強く胸を突き動かされて、それを何か気付かないほど、彼は幼稚ではない。手に入らない虚しさからか無意識に遠ざけていたものが目の前にあることに気が付いてしまえば、もう抑えられそうになかった。
「ペパー、大丈夫?」
「え? っ……と、悪い! ボーっとしちまってた」
「先生にそんなひどいこと言われたの?」
「そういうわけじゃねーけど……。とにかく! 冷める前に早く食おうぜ、な!」
 明らかに様子のおかしいペパーを見て、が彼の顔を覗き込む。それすら、今の彼には目に毒だった。
「あーくそ、反則ちゃんだろ……」
 に背を向けて、一人呟く。手で覆った顔が、ひどく火照っていた。

 部屋へ戻るまでは待ち遠しくて仕方なかった夕食は、かつてないほどにぎこちないものとなった。味がしない食べ物を、ただ口に運び続ける作業だ。
 会話が途切れた瞬間何か言われるんじゃないかと、ペパーはいつも以上に饒舌に話し続けた。
 そのせいで余計な口を滑らせ自分の成績がとんでもないことになっていることを明かしてしまったが、背に腹は代えられない。恥をさらした甲斐あってか特に抱擁について尋ねられることはなく、ペパーは安心とも落胆ともいえぬため息をついた。
 元々、ペパーはへのボディタッチに躊躇いがない。肩を抱いたり腕を掴んだり、かつて彼女の相棒のライドポケモンに一緒に跨ったときは腰に腕を回したことだってある。当時は予想以上に華奢な体に驚きこそすれど、異性として意識することはなかった。
 それを考えれば、がペパーからのハグに何の反応も見せないことにも納得がいく。ペパーがに何気なく触れていたように、彼女もまたそれを何の抵抗もなく受け入れてしまったのかもしれない。彼女を鈍くしたのがこれまでの自分自身の行動によるものだと気が付いて、ペパーはめまいがした。
 拒絶されるのは当然耐えられないが、気持ちを自覚した以上そのままでいられては困る。ペパーは複雑な胸中で、頭を抱えた。抱擁をスルーされるのは、『脈ナシちゃん』の証拠に他ならない。
 無理に迫るつもりはなくとも、いつか手を伸ばさずにいられなくなるだろう。大切な人を失う痛みを、ペパーはよく知っている。
 もちろん、友達でい続けることは難しくないだろう。しかし、ペパーを超える存在がのそばに現れたとき、彼の胸の穴は満たされることがなくなってしまう。
 食後、まったりしていたとふと目が合う。丸っこい、幼い瞳だった。ペパーは急に胸の内を透かされているような気分になって、居心地が悪かった。見られたくないものを隠しているみたいな気持ちになって、視線を壁の地図へと逃がす。そんな彼を逃がさないと言わんばかりに、は「ペパーさ」と口を開いた。
「なんか疲れてる?」
「え? オレが?」
「うん」
 予想もしていなかったことを尋ねられたので、ペパーはつい彼女を見つめ返した。
 は少ない口数を補って余りあるほどに、表情豊かな少女だ。唇を小さくとがらせて、何かを見定めるように目を細めている。
「わたしも疲れたときとかつらいことがあったとき、お母さんとかポケモンにぎゅってしてもらうんだ。だからそうかなーって」
「それ、掘り返すのかよ……」
「ん?」
「いや、なんでもねー」
 てっきりスルーされたのかと思った話を予想外の角度から掘り返されて、ペパーは脱力した。は心の底から心配しているようで、目を細めたまま首を傾げる。思春期の男が少女を抱きしめる理由を、他に知らないかのようだった。
 呆れると同時に、純粋な彼女らしい誤解にペパーは微笑む。思いを見透かされたわけでないならば、ひとまずこちらのほうが好都合だろう。芽生えたばかりの気持ちをぶつける度胸は、今のところ持ち合わせていない。
 ペパーが曖昧に頷くと、は腕を組んで頭を捻った。
「もしそうなら、言ってくれたら手伝うし」
「は!?」
 ガタン、と驚きのあまり跳ねたペパーの足が棚を蹴り上げる。ぶつけた場所をさすりながら、手伝うって何を、とペパーの口角がひきつった。
 彼女のことだから邪な気持ちなどあるはずがないが、気持ちを自覚したばかりの男には刺激が強すぎる。一瞬のうちに、都合のいい頭は先ほど抱きしめたの感覚を体全体に思い出させようとしていた。
 期待するな、いやでも……と葛藤するペパーの気持ちを置いていくように、は「おすすめはハリテヤマだね」と続ける。
「ハリテヤマ?」
「体がモッチモチでね、大きいからぎゅってされると安心するんだよ。マフィティフももふもふで可愛いけど、やっぱり包容力を求めるなら……」
「あーーー! 理解した! なるほどな!」
 ――手伝うって、ポケモンを貸してくれるってことな!
 脳内で女神のようなほほえみで両腕を広げるのイメージ図が、あっという間にどっしりとしたハリテヤマにすり替わる。
 彼女のハリテヤマといえばマクノシタの頃から一緒の、超重量級エースだ。もし主人に妙な感情を抱いていることがばれたとすれば、事故を装って様々な骨を折られかねない。のポケモンは、皆主人思いだ。ヌシポケモンとの戦いでは頼もしかった巨体が、一瞬にして恐怖の対象へと変わった。
 マフィティフのことや家族のことで、にはペパーの心の深い部分を知られつくしてしまっている。弱みを見せるだけの信頼に足る人物であると認めたからこそだが、それは友達であった時の話。まずは男としての信頼を取り戻すところからだな、とペパーは決意を固めた。
 いつもよりずっと丁寧な所作で、に手を伸ばす。解かれたみつあみの癖の残る毛束に触れるのが、今の彼には精一杯だった。警戒心のない丸い瞳が不思議そうにこちらを向いているのを、ペパーは小さく笑って見つめ返した。
「なんでもねーよ、鈍感ちゃん」


「……と、いうことがあったんですが、どう思いますか? マジボス」
「その呼び方やめろし。ていうかそこまでやってイベント発生しないとかさすがに難易度高すぎでしょ……」
「ここでどっちが鈍感だよってハリテヤマ出してひっぱたいてもらおうかと思った」
「さすがにそれは死ぬ」


WaveBox
感想頂けると嬉しいです。