愛とやらに手を伸ばす
愛とやらに手を伸ばす
- 稲さに
- R-18
- 文庫
- 278P
両片想いから交際を経てファーストキス、初夜、その後……と段階を踏む稲さにの話です。ずっとイチャラブです。
第一話
まさか、と思った。
審神者の首筋を汗が伝う。そのひやりとした感覚が殊更、後ろめたさを際立たせた。
初夏、異常気象とも呼べる真夏日、揺れたのは蜃気楼ではない。ぐらりと乱れた視界の中で最後に映ったのは、気真面目に撫でつけられた髪だった。
「ん……」
「よかった、目が覚めたんだね。具合はどう?」
「一応、大丈夫……」
冷房が十分に効いた部屋で目を覚ました審神者は、すぐに事態を理解した。熱中症だ。横になった彼女を覗き込むのは、心配そうな表情の松井江だった。
審神者は手渡された経口補水液を飲み干す。舌はその味を抵抗なく受け入れ、容器一本分があっという間に空になった。
意識を取り戻したとはいえ、完全に回復したとは言い難い状態である。冷房の効きをよくするために回された扇風機の音が、妙に大きく聞こえた。
「桑名が心配していたよ。もっと気にかけておくべきだったって」
「そんな、これは自己責任だよ。申し訳ないな……」
催しもなく、遠征などで本丸を離れている者も少ない日であったので、本日は桑名江主導の下、本丸総出で夏野菜の植え付けが行われていた。審神者もそれを手伝って、手順通りに苗を植えていたはずである。「今日は暑いからこまめに水を飲んでね」と耳にタコができるほど言われていたにもかかわらず、審神者は直射日光に屈することとなった。
「松井、ずっとついててくれたの?」
「ああ。あなたのことだから、目を覚まして誰もいなかったらすぐに動きまわるだろうからって」
「うっ、それは否定しない……」
「気にしないで。それに、僕には土いじりよりこちらの役目の方が向いてる」
「あはは」
松井江が冗談めいた口調でそんなことを言ったので、審神者は明るい調子で声を上げて笑った。
それを見て、松井江が心底安堵した様子で目を細める。審神者は、自身の体調ひとつで周囲に気を揉ませる立場であると改めて自覚し、罪悪感から身を竦めた。
「そういえば、ここには松井が運んでくれたの?」
「ああ、それは——」
「入るぞ」
松井江の言葉を遮って、部屋の外から声がかかる。審神者の視線は自然と、開いた襖の先へと移った。
その姿を目にし、審神者の心臓が大きく跳ねた。稲葉江だ。彼は布団の上で上体を起こした審神者を見るなり、「具合はどうだ」と問いかけた。
「だ……大丈夫。もう元気」
「まだ顔が赤いように見えるが」
「そうかな……」
審神者の視線が、冷房で身体を冷やしすぎないようにとかけられたタオルケットに落ちる。引いた熱がぶり返したように体温が上がった気がして、審神者は手の甲で首筋を拭った。
どうして彼がここに、と彼女が疑問を抱くと同時に、松井江が「稲葉が倒れたあなたをここまで運んでくれたんだよ」と口を挟む。審神者は驚いてつい顔を上げた。
「いっ、稲葉が!?」
「目の前で倒れたのだから、そうするのが当然だろう」
審神者が信じられないと言わんばかりに大きな声を上げたせいか、稲葉江の顔が怪訝に歪んだ。
思いがけない事実への咄嗟の反応とはいえ、恩人である彼にあまりに失礼な言動だ。審神者は誤魔化そうと首を横に振ったが、そのせいで眩暈を起こし、くらりと上体を揺らす。松井江が腕を伸ばし、彼女の背を支えた。
「ご、ごめん。ちょっと意外だったっていうか。ありがとう……」
「休養が足りんようだな。目を覚ましたなら薬研藤四郎に伝えておく」
「稲葉、薬研を呼ぶならついでに飲み物を二本頼めるかな」
「言付けておこう」
淡々としたやり取りの後、稲葉江は審神者を一瞥してから部屋を出て行った。ぱたんと襖が閉じられ、遠ざかる足音を聞いてから、審神者はどっと脱力し長く息を吐く。松井江は身内と今の持ち主のぎこちないやり取りを面白がっているのか、微笑ましげに彼女を見ていた。
「そんなに驚くことだったかな」
「う……いや、なんでもない。気にしないで。ところで稲葉、何しにきたの?」
「あなたの顔を見にきたんだと思うよ。心配していたから」
「稲葉がぁ?」
またしても不遜とも呼べる声色で彼の名を呼び、審神者ははっと口を噤んだ。松井江は口元に手を当て、優雅にくすくすと笑っている。これ以上は失言を重ねるばかりである。彼についてはもう言及しまい、と頭を振って、審神者は稲葉江の存在を脳から追いやった。
「松井の旦那、開けてくんねぇか!」
丁度タイミング良く、襖の奥から声がかかった。青年を思わせる逞しい声だ。松井江が襖を開けると、そこには案の定薬研藤四郎が立っている。薬研藤四郎は、小柄な体に似合わぬ大きな段ボール箱を両腕一杯に抱えていた。
「薬研、早かったね。……それは?」
「ちょうどそこで稲葉の旦那に会ってな。よっと」
薬研藤四郎は畳を傷をつけぬよう、彼にとっては丁寧に——しかし繊細な刀にとっては大胆に——段ボール箱を置いた。
天が開いたそれを審神者が覗き込めば、中にはみっちりとスポーツドリンクが詰まっている。まさか、と審神者が苦笑を浮かべ薬研藤四郎を見れば、彼はニヤリと笑った。
「大将に差し入れだ。おっと松井の旦那、口は挟まんでくれよ。一応博多とも相談したんだ。大将よりは頑丈に出来てるとはいえ、畑仕事は戦とは違うからな。俺たちだって熱中症は他人事じゃない」
「まだ何も言っていないよ。それに、体調管理にまで勘定を持ち出すつもりはない。あなたも、予防意識が高まったとでも思って、そう重く受け止めなくていいから」
「う、うん……」
察しのいい二振りは、審神者が何か言う前に彼女の気持ちを汲み取った。運び込まれた大きな段ボール箱の威圧感に圧倒されながら、審神者はその中から容器を一本抜きとる。
おそらく、審神者が倒れたと知り、いてもたってもいられなかった者が店に買いに走ったのだろう。液体がミッチリ詰まった段ボール箱を持って運ぶなど、屈強な肉体を持つ刀剣男士にとっては朝飯前である。
それにしたってこんなに買わなくたっていいのに。大袈裟すぎる——といった本心は、薬研藤四郎と松井江の言葉によって先回りして宥められている。ここまでしてもらったのだから、彼らの心配りはありがたく受け取っておくべきだろう。
自分が体調を崩したと知って特に大騒ぎしそうな面々の顔を思い出し、審神者は口元を綻ばせた。また倒れるようなことがあれば、今度こそ夏場の日中は外に出してもらえないに違いない。
「ちなみにな、大将。これが後五箱ある」
「買いすぎだよ」
これにはさすがの審神者も頬を引き攣らせた。審神者のぴしゃりとした返しに、薬研藤四郎が豪快に笑った。
百数振りを擁する本丸で積極的な水分補給を命じれば、過剰に思える量の飲み物はあっという間に消費された。
夏の盛りはまだ遠い。在庫があれば審神者は余分に水分補給をすることが分かったので、刀剣男士たちは残りの箱が一つになるや否や再び店へと走り、今度は倍の量を持ち帰った。
日増しに気温が高まる中で、審神者の心境には見て見ぬふりの出来ない変化があった。
件の稲葉江のことである。熱中症が起こした気の迷いであればいいと思ったその心の動きは、どうやら彼女の心臓の中心を陣取って、退く気配はないようだ。
すっと伸びた背筋を視線で追う癖は、意図的に逸らそうとするほど抗い難く、してはならぬと思ったことをより強く望むのが人の心理というものだ。この感情に振り回されるほど幼稚でもなかった審神者は、気付いてしまった以上は受容するほかなかった。
これがもう少し話の分かる刀であればよかったのに、と彼女は思った。難儀な話だ。大抵の刀剣男士は持ち主である審神者に大小差はあれど好感を抱くはずだから、相手が違えば一晩くらいは情けをかけて貰えたかもしれない。
しかし相手が堅物で頑固な稲葉江であるばかりに、それは望めなかった。抜かって想いを悟られた日には、自身が仕えるに足り得ない不出来な主だと失望されてしまうかもしれない。
それほどまでに、稲葉江とは高潔な男だ。高い志に向けて邁進する強さを持ち、他者以上に己に厳しい。
そんな彼だからこそ、口数少なくも言葉は重い。数年前、審神者の就任記念日を祝う宴での、彼女の働きを認めてくれた優しい声色が、今でも忘れられなかった。
季節は変わり、夏になった。照りつける日差しは厳しく、畑では夏野菜が順調に身を大きくしている。「収穫が待ちきれない桑名が日の出と同時に動き出すものだから、毎日無駄に早起きをしてしまう」と、松井江が愚痴を漏らしていた。
主従の鎖はそう簡単に覆せない。稲葉江への想いを自覚してからも、審神者は良き主であろうと努めていた。
他所では刀剣男士に心を奪われたからと、主命を以て夜伽を命じる審神者もいると聞き及んでいる。人間同士なら上下関係があれど、合意の有無が争点となるが、刀剣男士は人ならざるものであり、審神者はそれを使役している。そういった関係性から、道徳的観点はともかくとして、そうした事例を裁く法はなく、よほど悪質な例を除いて見逃されていた。
持ち主と刀という絶対的関係がある以上、ふたりが相思相愛であるか、上下関係を理由に行為を強制されたかどうかを、他人が正確に測ることは出来ない。時の政府としては、測る必要はないとすら思っているようだ。本丸が健全に運営されている限り、時の政府側から表立って波風を立てるようなことはしない。
——以上が、審神者と刀剣男士間の恋愛について彼女が調べ、得た知見である。
稲葉江との関係は一分たりとも変わらない。変わらぬまま、想いだけが日を追うごとに強くなっていく。臆病を言い訳に諦観を貫き、彼女は停滞を選んだ。
この本丸では四半期に区切って、誉の数に応じて褒美を与えている。先日評定が終わった第一期で、稲葉江は最上位の評価を得ていた。昨年顕現したばかりの新参者であることを鑑みれば、これは大層な躍進である。
想い人だからといって家臣として贔屓し取り立てるつもりはないが、それでも降順に並ぶ表のてっぺんにある名前に誇らしさを感じたのは本心だ。本丸の主として平等であるべきという後ろめたさを覚えながらも、悟られなければ誰に咎められることもない。ひとりきりの執務室、審神者は指で彼の名をなぞった。
彼女の本丸には、図書室が備えられていた。といっても、物置に入るだけの本棚を詰めただけの簡素なものだ。
何の因果か、発足当初の彼女の本丸には読書を嗜む刀剣男士が多く集っていた。本の貸し借りを頻繁に行ううち、いっそ複数人が興味を持つような書物は、個人ではなく本丸単位で備品の一種として購入した方が良いのではという意見が出た。審神者もそれに賛同し、時を経るにつれ所蔵も増え、今に至るというわけだ。
レシピ本からビジネス書、小説や詩集に画集まで、本のジャンルは多岐に渡る。よほど高価でも不適切でもなければ、申請すれば大抵は購入許可が下りた。
自ら購入申請を出すほどでもないが、新しい本が入れば興味本位で手に取る者が一定数いるようで、入ったばかりの本が順番待ちになっていることも珍しくはない。それほど高頻度で、ここの本は貸し出されていた。
図書室入り口の引き戸を開いてすぐ、審神者は先客に気付いた。照明がついている。彼女は学生時代からの習慣で物音を抑えながら扉を閉め、誰が来ているんだろう、と狭い間隔で並ぶ本棚の間を覗いて回った。
一番奥の本棚を超えた先に、壁に背を預けて稲葉江が立っていた。手元には一冊の本を開いて、紙面に視線を落としている。思いがけない遭遇に、審神者は目を丸くした。
稲葉江は審神者の気配に気付くと顔を上げ、ページを捲ろうとした手を止めた。愛想の感じられない強面だが、その表情は彼女を拒んではいない。審神者は数歩、彼に近付いた。
「稲葉、何読んでるの?」
「異国の兵法書だ」
「へー……。外国語読めるの?」
「翻訳されている」
「そうなんだ……」
審神者の問いに、稲葉江は端的に答える。その手の知識に明るくない審神者は、気の利いた言葉を返せないまま黙り込んだ。稲葉江は読書の手を休めたまま、審神者の言葉の続きを待っていた。
狭い静寂は弾まない会話を責めるようで居心地が悪い。彼女は音を立てず、逃げるように別の本棚の間に潜った。彼の視界を外れ、埃っぽい空気の中で深呼吸をする。
——今まで図書室で会ったことなんてなかったのに、珍しい。稲葉って外国の本も読むんだ。壁にもたれ掛かって読んでるの、カッコ良かったな。
たった一枚本棚を隔てた先で、審神者はひとり乙女の顔をする。一度この感情を吐き出さねば、この密室で正気を保っていられる気がしなかった。
偶然にも、審神者の目当ての本は目の前の本棚にあった。背表紙に記された心当たりの題字に腕を伸ばすも、審神者の手は届かない。仕方なしに脚立を探そうと本棚の間を出れば、読んでいた本を閉じた稲葉江と目が合った。
「稲葉、ごめん。ちょっと本取ってくれない? 高くて届かなくて」
稲葉江は言葉なく頷きで了承し、手招きされるがまま彼女に近寄った。
「あそこの棚の一番上、黒い背表紙のやつ」
「これか」
審神者が指さした本を、稲葉江は本棚から抜き取った。その表紙を目にした彼が、怪訝に顔を顰める。目をじとりと細めたまま、稲葉江は審神者に本を手渡した。
審神者の目当ては古い作家の短編集だった。推理小説で名を馳せた文豪だが、グロテスクな恐怖小説も多数執筆している。おどろおどろしく猟奇的な表紙は、刀剣男士らが抱く審神者のイメージに相応しくないものであるという自覚を彼女自身も持っていた。
「……違うからね、変な趣味とかないから。ちょっと気になる話がこれに収録されてるだけなの」
「何の言い訳だ。好きなものを読めば良い」
稲葉江の表情を見て、あらぬ誤解を受ける前に審神者はつらつらと早口を捲し立てた。前のめりな彼女に、稲葉江は呆れ顔を浮かべる。審神者は先走ったことが恥ずかしくなって、小さな声で礼を言って本を受け取った。
ごく自然な流れで、稲葉江と審神者は共に端末で貸し出し手続きをすることになった。手続きといっても、日時と貸与者、本の題字を記録し所在を明らかにするための簡単なものである。
稲葉江がついでに彼女の分も記帳してくれることになり、審神者は彼に本を預けた。稲葉江は端末のモニタを操作しながら、不意に口を開いた。
「悲劇を好むか」
「えっ? ううん、普段はあんまり読まないよ。でも前に見た映画の元ネタがこの本に入ってる短編って聞いて、興味持ったんだ」
まさか彼が彼女の借りた本について言及すると思わず、審神者の一言目が上ずった。
稲葉江が必要事項の入力を進める傍ら、手持ち無沙汰になった審神者は、何気なく稲葉江が借りた本を捲った。
異国の軍事学書だ。図解はあるもののぎっちりと詰まった翻訳文特有の堅苦しい文章は、見ているだけで眩暈がする。呪文みたいだ、と思いながら、審神者は陣形や武器の名称などの見慣れない言葉を目で追った。
審神者に就任する前にある程度の教育は施されたものの、彼女の戦術の知識は戦の時代を生きた刀剣男士には遠く及ばない。戦場での判断は、それらに長けた刀剣男士に判断を委ねることが多かった。平和な時代に生まれ育った彼女は、戦場で生き抜く術を求められてこなかったために、そういった知識に乏しかった。
「私もこういう本読んで勉強した方がいいのかなあ」
空白を埋めるための独り言のつもりで、審神者は本のページを捲りながらそう口にした。
「戦術の初歩ならば別の書が向いている」
稲葉江の返答に、彼女は小さく驚いた。適当にあしらわれるか、無視されるとばかり思っていたのだ。審神者はページを捲る手を止め、本から顔を上げた。
「おすすめある?」
「——暫し待て」
審神者の分の貸与申請を記入し終えた稲葉江は本棚の間に引っこむと、一分もしないうちに帰ってきて、机の上に三冊の本を机に並べた。
「基本を押さえるならばこの本だ。更に踏み込んで学ぶならばこちらだが、比較的解説が平易で読み易い」
稲葉江は本の表紙をひとつひとつ指差し、それぞれの解説をした。
審神者はふんふんと頷き、稲葉江が指差した本を開いてみた。確かに稲葉江が借りたものよりも、人に読ませようと働きかけるような文体であるという印象を受ける。一冊目は用語解説が豊富であり、二冊目はより踏み込んだ内容かつ、それらが分かりやすく解説されていた。
では、残るもう一冊は。審神者は稲葉江の言葉を待って、ちらりと彼を見上げる。すると、稲葉江は指の腹で本の表紙をなぞりながら、珍しく視線を泳がせた。
「これは——興味があればいずれ読めば良い」
「何それ」
「それで、どうする」
ここまで丁寧な解説をしてもらって「やっぱいいです」と言えるほどの図々しさを、審神者は持ち合わせていなかった。兵法に興味があると言ったのは嘘ではなかったし、何より本を選んでくれた彼の厚意を無下には出来ない。
「じゃあこの二冊借りようかな」
「ではこれも手続きをしておく」
「うん、ありがとう」
追加で二冊分の貸与手続きを済ませた稲葉江は、結局説明することのなかった残りの一冊を本棚へと戻した。
審神者は三冊の本を、稲葉江は最初に読んでいた本を手に、図書室を出る。窓から外光の差し込む廊下へ出ると、陽の光が網膜に焼き付いた。
稲葉江と図書室の前で別れ、審神者は自室へと向かった。その道中、審神者ははたと気付く。密室で稲葉江と完全なふたりきりになったのは、これが初めてではないか、と。
審神者は自らの態度から好意が透けていなかったか、不自然な態度を取っていなかったかと図書室での数分間を思い返した。けれど思い浮かぶのは、端正な横顔と本を撫でる逞しい指先くらいのもので、反省が形となることはなかった。
数日後、借りた三冊を返却するために、審神者は再び図書室を訪れた。
ぱちりと照明のスイッチを押し、端末で手続きを済ませた後に、所定の場所へと本を戻す。慎重に脚立を降りていると、本棚に並ぶある一冊が審神者の目が止まった。
稲葉江が持ち出してきたものの、結局借りるに至らなかった本だ。表紙や題名から軍事学書であることは間違いなさそうだが、詳細な内容までは知らないままだった。
稲葉江はなぜこの本を手に取ったのか。中身を読めばその理由がわかるかもしれないと、審神者はその本に手を伸ばした。
ぱらぱらと捲って眺めた限りでは、審神者が借りたものよりも幾分か専門性の高い戦術に関する本であるようだ。地形別の効果的な陣形や状況に合わせた戦術が具体的に記されているが、ある程度読者に知識があることを前提として書かれている。確かにあの二冊に比べると、遥かに難しい内容であった。
審神者は迷った末、この本を借りてみることにした。
彼女の知識レベルでは、まだ相応しくない本かもしれない。が、一応は日本語で記されているので、内容を完全に理解して活用出来るかはさておき、全く一文も理解できない、ということはないはずだ。先に読んだ二冊の知識を踏まえれば、流し読みをした限りでも審神者として知っておいて損はない知識が書き連ねられている。手に取って無駄になることはないだろう。
彼女は貸出手続きを済ませ、その本を手に図書室を出た。
執務室に戻った審神者は、借りた本を文机の脇に置いて、勘定番長からまとめて出された経費申請書に承認印を押していた。
それらを眺めている内に、いくつかの備品が欠品間近であることを審神者は思い出す。自ら買いに行かずとも誰かにおつかいを頼めば皆快く引き受けてくれるだろうが、机に向き合うのも飽きてきた頃合いだ。彼女は凝り固まった体をほぐすついでに外出するか、と身支度をして席を立った。
審神者が執務室を出て廊下を歩いていると、薬研藤四郎に鉢合わせた。
「大将、出かけんのか?」
「うん。ちょっと買い物」
購入予定の備品の数を考えると、そう大荷物にもならない。わざわざ大柄な刀剣男士を呼ぶ必要もなく、古株の薬研藤四郎は気心の知れた仲だ。買い物のお伴としてはうってつけである。
「荷物持ちなら俺っちが付き合うぜ」
「言ってくれると思った。お願いできる?」
「待ってな、すぐ支度してくる」
薬研藤四郎が外出の支度を整えるのを待ち、ふたりは共に街へと向かった。
買い物を終えたふたりは、大通りを外れ人の往来が疎な道を歩いていた。
必要な備品と共に、気になる新商品をいくつか見繕ってもらったことで想定よりも荷物が増え、薬研藤四郎は両腕に買い物袋を下げている。小柄な彼に一人で持たせるのは忍びなく、審神者は「片方持とうか」と提案したが、彼は頑なに聞き入れなかった。
薬研藤四郎とは長い付き合いになる。彼女がその手で初めて鍛刀した彼は、審神者にとって戦でも私生活でも頼りになる兄のような存在だった。
百を超える刀剣男士と共に暮らしていると、全員に同じだけの時間を割くのは容易ではない。本丸の規模が大きくなるにつれて審神者は忙しくなり、こうして彼とじっくりと世間話をする機会をしばらく設けられていなかった。
久しぶりにふたりきりで話した薬研藤四郎は、始終楽しげに笑っていた。粟田口の短刀だけでなく、刀剣男士の先輩として本丸でも頼りにされることの多い彼が、今だけはリラックスできているように見えて、審神者はそれが嬉しかった。それと同時に、もっと意識的にいろんな刀剣男士とコミュニケーションを取るべきかもしれない、と彼女は思った。
用は済んだものの話は弾み、そのまま帰ってしまうのも勿体無くて、ふたりはどちらともなく脇道に逸れた。街外れの川沿いには遊歩道が整備されており、散歩にはうってつけだ。
曇り空に風がよく通ることもあって、夏場ながら暑さも幾分か和らぎ、過ごしやすい気候だ。しばらくの間、彼らは歩きながらのおしゃべりに興じた。
——先に異変に気付いたのは、薬研藤四郎だった。
軽快な会話が止み、薬研藤四郎が一言「大将」と呼ぶ。その声だけで審神者は事態を察し、片腕を広げ周囲を警戒する彼の小さな背に隠れた。
「数は?」
「一、二……最低でも四はいる。数が厄介だな。俺っちだけで対処するのは骨が折れそうだ。……いや、ちょっと待ってくれ」
審神者は薬研藤四郎に促されるまま、河川に沿った道へと走った。
すると大きな橋の下、暗がりの中で誰かが身を潜めている。薄ぼんやりとした人影に、薬研藤四郎は警戒を緩ませぬ声色で「あんた、審神者だな」と問いかけた。
暗さに慣れた審神者の瞳が、その姿を捉える。橋の下にいたのは、怯え切った表情で背を丸め膝を抱えた少年だった。
「や、薬研……?」
「ああ。護衛の刀剣男士は連れてないのか?」
「い、いる。今は橋の近くに敵がいないか見てくれてて……」
「っ、誰だ!」
審神者と薬研藤四郎、少年は突如響いた声に目をやった。まるでトンネルの中にいるかのように、焦りを帯びたその声が反響する。白い布を被った彼は初の山姥切国広だ。審神者はふたりを見て、まだ発足して間もない本丸なのだろうと察した。
「薬研藤四郎だ。敵意はねぇ。こっちは俺っちの大将だ。状況の説明を頼めるか」
「っ……ああ。といっても俺たちも会敵して逃げてきたばかりだ。情けない話だが、俺の手に余る。主の安全を優先した」
「いい判断だ。数は」
「俺が見た限りでは五、短刀が一と太刀がニ、打刀が三だ」
「なるほどな……」
薬研藤四郎が得た情報を元に顎に手を添え考え込んだ。
敵の刀種から察するに、潜入ではなく襲撃を企てているのは間違いないだろう。街へと入り込む算段を立てているところなのかもしれない。ここで食い止めねば、身を守る術を持たない町人にまで被害が及ぶ。
審神者はここらを歩き回った記憶を掘り返し、ふと思い至った。「薬研」と控えめに呼ぶと、彼は顔を上げる。
「ちょっと提案がある。上手くいくかわかんないけど……聞いてくれる?」
「もちろんだ。大将の策、聞かせてくれ」
審神者はそばに落ちていた木の枝を手に取った。砂道にここら一体の簡易的な地図を書いて、転がっていた石を敵に見立てて配置する。
少年と山姥切国広、そして薬研藤四郎が真剣な表情で彼女の描く図を眺めていることに緊張を感じながら、審神者は自らが立てた作戦を説明した。
結論から言えば、審神者の策はぴったりと嵌り見事敵を退けることに成功した。
立地を利用しふたりの審神者が囮となることで、死角から薬研藤四郎が一振りずつ打ち取る策だ。山姥切国広はまだまだ未熟だが、一対一ならある程度対処のしようがある。審神者も足止め程度ではあるが身を守る術を持っていたため、敵の注意を引き付けた隙を薬研藤四郎が仕留めた。
付け焼刃の策に不安はあった。けれど、いついかなる時も冷静さを欠くべきではない。どんな盤石な体制でも、揺らぎが見えればあっという間に決壊する——稲葉江に勧められた本から学んだ知識が彼女を支え、勇気を奮い立たせた。
最後の一体を仕留めた後、薬研藤四郎が周囲の安全を確認する。時の政府への報告は先輩である彼女が請け負うことになり、少年とは連絡先を交換して別れた。
空を見上げると、もう日が暮れかかっている。長く留守にしていては本丸の皆が心配するだろうと、審神者と薬研藤四郎は帰路を急いだ。
事態が収束しても、審神者の手の震えは止まらなかった。薬研藤四郎が静かに俯く彼女の背を強く叩く。
「大将、見違えたな。俺っち、涙が出そうだ」
「大袈裟だなあ。でも、ありがとう。薬研のおかげ」
後輩の前ということもあり平静を取り繕っていた彼女だが、直接時間遡行軍と対峙して、恐怖を感じていないわけではなかった。あの場で判断を誤れば、少年共々命はなかったかもしれない。命の危機に直面して、いかに自分が戦いの本質を理解していなかったかを、まざまざと思い知らされていた。
そんな彼女を励まそうと、薬研藤四郎は涙を拭うような仕草を見せながら審神者を激励する。審神者がまだ、陣形の名前を辛うじて覚えたばかりの素人時代を知る彼だ。恐怖心を紛れさせようと茶化すような口調ではあったが、その言葉は本心なのだろう。そんな風に彼女は思えた。
本丸へと着くと、審神者の帰りを待ちわびていた刀剣男士らに出迎えられた。
ふたりの帰りが遅いことを案じていた彼らは、薬研藤四郎に残った戦闘の気配に気づくや否や、表情を強張らせる。ぴりついた空気にたじろぐ審神者を庇うように、薬研藤四郎が一歩前へ出た。
「外で敵に遭遇した。が、まぁ大将の機転で一件落着だ。心配するようなことは起きてない」
一瞬にして張り詰めた空気を振り払うように、薬研藤四郎は端的にそう説明した。本丸の面々からも信頼の厚い彼の言葉である。審神者がこくりと頷いたことで、刀剣男士らはようやく肩の力を抜いた。
そこからはもう、大変な騒ぎだった。落ち着いて事情を説明すると、審神者は激励やら心配やらで刀剣男士らにもみくちゃにされた。
「ぬしさま、恐ろしい思いをされたでしょう。私の毛をもふもふして癒されてくだされ」
「犬芸でも見せましょうか」
「その前に腹ごしらえだろう。夕餉の支度がもうできるよ」
そんな具合で、それぞれに声を掛けられる。心配されるばかりでなく、薬研藤四郎が審神者の武勇伝を大きく膨らませたせいで、至る所でその活躍を誉めそやされた。審神者は彼らの気持ちをありがたいと思う反面、部屋へと戻る頃にはすっかり気疲れしてしまっていた。
夕飯と湯浴みを済ませた審神者は、疲れからか甘いものが欲しくなって、冷凍庫のアイスを求めて厨へと足を向けた。
ぺたぺたと汗ばむ裸足が床板に張り付くのを感じながら歩いていると、廊下の曲がり角で稲葉江に出会った。彼もまた湯上りのようで、いつもはぴったりと整えられた髪は、波がかって額に下りている。普段の堅苦しい印象と違ったどこか色っぽい姿に、審神者はつい目を奪われた。
「今日は災難だったな」
「あっ、うん……びっくりした。なんとかなってよかったよ」
稲葉江に労いの声を掛けられて、審神者はハッとした。出迎えの場にはいなかったはずだが、会敵のことは稲葉江の耳にも入っていたらしい。見惚れていたことを誤魔化すように、審神者の言葉は少しだけ早口になった。
「そうだ! 稲葉、あのね。お礼言わなきゃって思ってたの」
「何だ。覚えはないが」
「前に教えてもらったけど借りなかった本、今日ちょっと読んだんだ。その内容が頭に残ってて咄嗟に作戦が立てられたっていうか……とにかく、今日冷静に対処出来たの、稲葉に勧めて貰った本のおかげ。本当にありがとう」
改めて礼を言うことが照れくさく、勢い任せに捲し立てた後、審神者はもじもじと両手を握り合わせた。こんなことで改めて感謝されるのも妙だろうかと、言い切って尚彼女は落ち着かない。彼の反応を窺うと、稲葉江はいつも通りの硬い表情で審神者の様を見下ろしていた。
「学んだことを実践するのは容易なことではない。知識ばかり蓄えても役に立たん」
「えっ?」
「……よくやったな」
ほんの刹那、見逃してしまいそうな程の一瞬、稲葉江は柔らかく表情を緩ませた。
彼女を労う言葉と共に向けられたあたたかな眼差しに、審神者の心が打ち震える。歓喜のあまり泣き出したくなるというのはこういうことかと感じ、下唇をぐっと噛んだ。
嬉しかった。ほかでもない、稲葉江に認められたことが。彼の言葉が雫となって、心の水面に波紋が広がる。この人が好きだと、審神者の全身が強く訴えていた。
稲葉江と話を終えて、厨に向かっていたはずの審神者は踵を返し、部屋へ戻った。今のままでは胸がいっぱいで、アイスの味を楽しめそうにない。彼への想いが高揚感となって、体中を満たしていた。
審神者はベッドへと飛び込み、ヘッドボードに置いていた例の本を手繰り寄せた。横になりながら読むには堅苦しい文章が連なったページを、ぱらぱらと捲る。
図書室の本はすべて、裏表紙の見返しに本の取り寄せを申請した者の名を印字したラベルが貼られている。審神者が何気なくそこを開くと、ラベルには稲葉江と記されていた。
第二話
それからというもの、審神者はより一層勉学に励むようになった。知識を蓄えるうち、これまでは隊長に判断を委ねていた場面で意見を求められることも増え、確かに手応えを感じている。
ただ審神者として物の心を励起させる力を持つが故に祭り上げられたお飾りの将であることに、審神者はずっと負い目を感じていた。けれど少しずつではあるものの学びながら経験を積み、今では戦いに於いても力になれている。その誇らしさが自信となって、更なる成長を促していた。
審神者は余所行きの服を身に纏い、自室の全身鏡を覗いた。髪からつま先まで、おかしな部分はないかとよく確かめた後、鞄を手に部屋を出る。すれ違った鶴丸国永は、普段と違う装いの彼女を見るなり「おっ、ずいぶんめかしこんでるじゃないか」と茶化した。
「聞いたぜ。君、男と逢引きするんだろう」
「逢引きって……ずっと年下の子だからね。誤解を招く言い方やめて」
「ははっ、悪い悪い」
鶴丸国永の質の悪い冗談はさておき、本日審神者は、共に時間遡行軍と戦った例の少年と山姥切国広に会うことになっていた。
その後の敵の動向については時の政府に調査を一任しているが、あの場での審神者の行動を見て、再び会いたいと少年が連絡をくれたのである。先輩として尊敬されることが面映ゆく思うと共に、憧れられている以上、失望させるようなことはあってはならない。せめて見た目だけでもカッコいい先輩でありたいと、朝から鏡の前で睨めっこをしていたわけだ。
「そうだ。鶴丸、薬研見てない?」
「薬研か? あいつなら……」
「大将、待たせたな」
鶴丸国永に薬研藤四郎の居場所を聞いていると、丁度彼が現れる。こちらはいつも通りの彼らしい戦装束だ。
こういう時、審神者という職は型にはまった正装がないのが厄介だな、と彼女は思った。学生の審神者は制服を身に着けていることが多いが、和装は着慣れないし、かといってスーツも堅苦しく、審神者ではなく時の政府役員に見えてしまう。こういう『ちゃんと』を求められる機会に出くわす度、彼女は頭を悩ませていた。
審神者と薬研藤四郎は一時間と少しの時間、街の喫茶店で少年らと話をした。
件の会敵について、彼女が時の政府から降りてきた情報を彼へと説明し終えると、少年は緊張した面持ちで「聞きたいことがあるんですけど」と話を切り出した。彼につられて、審神者もつい身構える。少年は前のめりになって、どうすれば彼女のように咄嗟に状況を判断し策を敷けるかと尋ねた。
包み隠さず言えば、「直前に読んだ本に書いてた作戦が使えそうだったから」というのが返答だが、それでは先輩審神者として恰好がつかない。審神者は刀剣男士の受け売りだと言い添えて、稲葉江に勧められた本の話をした。
あの場でうまく対処できたのは彼女に実力があったからではなく、運が良かったからに過ぎない。偶然本の内容を活かせる立地で、連れていたのが奇襲に長けた短刀である薬研藤四郎だったこと、山姥切国広が敵の数を把握していて、かつ敵が彼女の予想した通りに動いてくれたこと。それらがうまく噛み合ったおかげで、窮地を切り抜けることができただけだ。
羨望の眼差しを向けてくれているのだから、必要以上に卑下するのも躊躇われたが、知ったかぶって尊大に振る舞うことも出来ない。何とか体裁を整えた彼女の回答に少年は満足してくれたようで、本のタイトルを控えて「早速読んでみます」と嬉しそうに話してくれた。
本丸へと帰ってすぐ、審神者は稲葉江を探した。すれ違った刀剣男士に居間にいたはずだと教えられ、そちらへと走る。彼の言葉通り、居間には篭手切江と話をしている稲葉江の姿があった。
「稲葉!」
審神者が逸る気持ちを抑えきれぬまま彼の名を呼ぶと、二振りが振り返る。しかし、稲葉江は審神者を見るなり、顔を顰めた。
彼の眉間に刻まれた皺が、審神者の続きの言葉を封じる。忙しいところに邪魔をしてしまったのかもしれないと、審神者は篭手切江へと視線をやったが、彼はいつも通り人のいい笑みを浮かべていた。
「ごめん、邪魔しちゃった?」
「いえ、ちょうど話し終わったところですよ。ところで主、今日は一段と素敵な格好をしていますね」
「あっ、ありがとう。変じゃない……?」
「まさか。よくお似合いです」
篭手切江に服装を褒められ、審神者は照れ隠しに髪を耳にかけた。
間が悪かったわけでなければ、普段と違う点といえばこの服くらいのものだ。まさか、この服が気に食わずあんな表情を? 審神者は恐る恐る稲葉江を盗み見る。彼の表情は、険しさを増しているようにすら見えた。
すていじに憧れる篭手切江は流行への感度も高く、ファッションに詳しい。そんな彼が褒めてくれたのだから、おかしな格好をしているわけではないと思うのだが、稲葉江には見苦しく見えたのかもしれない。審神者は途端に、彼の視線が身分不相応な装いを咎めているように感じ始めた。居心地の悪さに、彼女は稲葉江から視線を外し、二の腕を摩った。
「……随分早い帰りだな」
「え、そうかな。元からお茶するだけの予定だったから」
「街で時間遡行軍に遭遇した時の審神者の方ですよね?」
「うん、そう」
審神者は日頃、買い物以外で外に出ることが少ない。そんな彼女がわざわざ他人と約束をして出かけるということで、噂は本丸中に広まっていたらしい。だからこそ、中途半端に耳に入れた鶴丸国永のような刀に茶化されてしまうわけだ。
「どうでしたか?」
「他の審神者との交流って今まであんまりなかったから緊張したけど、楽しかったよ。憧れですって言われて、本を読んだだけの付け焼き刃ですとも言えないから誤魔化したけど」
「主のこれまでの経験があってこそ、行動に移せたのだと思います。誇るべきですよ」
「そうかなぁ。ありがとうね、篭手切」
篭手切江に微笑みかけると、審神者は横面に視線を感じた。稲葉江からの鋭いまなざしを気まずく思いながら、やや過剰に明るく振る舞って「そうだ!」と声を上げた。
「稲葉に勧めてもらった本ね、その人にもお勧めしたよ。読んでみるって」
「そうか」
「う、うん」
稲葉江に関する話をすれば多少は気分が上向くだろうか、という彼女の策は、味気ない返事によって封殺された。彼が何に不満を感じているのか見当もつかない審神者は、彼の機嫌を取るのを諦めて、篭手切江との話に戻った。
審神者は話しながら、少年の顔を思い出していた。もしも弟がいれば、あんな感じだろうか。就任当時若かったこともあり、面倒を見るよりは見られる側に馴染みのある彼女にとって、彼との交流はくすぐったいものだった。
「その子、十五歳なんだって。若いよね。私も審神者になったのそのくらいの歳だったけど、時間遡行軍が怖くて毎日泣いてて……それに比べたら、すごくしっかりしてる子だった」
審神者は少年とかつての自分の姿を重ねた。
当時はまだ審神者の育成も今ほど手厚くなく、制度も整備されておらず不便も多かった。特に彼女は戦や刀剣、歴史への専門知識もないままこの世界に飛び込んだものだから、最初の数年は日々を生きるだけで精一杯だ。さらなる精進を目指して、なんて考える余裕もなかった。今と環境は違えど、それと比べれば少年は随分立派に見えた。
篭手切江が「お若いですね」と驚く傍ら、稲葉江は、今度はなかなか見ない表情をしていた。何か想定外のことがあったかのような、そしてどこかバツが悪そうな顔つきだ。あまり感情を表に出さない彼の珍しい表情が今度こそ気に掛かって、審神者は「稲葉、なに? さっきから変な顔して」と問いかけた。
「……まさか、今更昔の私が情けない! とか言わないよね。だって仕方ないじゃん、今とは違うんだって」
「そうではない。……我が早合点をしていただけだ」
「早合点? 何を?」
逸らされた視線が、言い訳めいた気配を滲ませる。稲葉江の心を惑わせる事柄など、そう多くはないはずだ。彼の意図が分からず、審神者は首を傾げた。
「……篭手切、もう用は済んだな」
「あっ、はい! お手伝いありがとうございました」
稲葉江は審神者の問いに答えぬまま、その場を後にした。
審神者が篭手切江の手元を覗くと、次月以降の洗濯当番表がある。細やかで気が利く性格の篭手切江は、この本丸の洗濯当番の取りまとめを一任されていた。なるほど、この表の作成を稲葉江は手伝っていたらしい。
「……稲葉、なんか変じゃなかった?」
「そうでしょうか?」
篭手切江は表を両手に抱いたまま、稲葉江の様子を不思議がる審神者に、妙に暖かな笑顔を向けていた。
稲葉江との図書室での一件以降、戦術に関する書を読むようになった審神者だが、学習に行き詰まりを感じていた。
気になった本をいくつか読んでみたものの、自分の知識レベルでの更なる発展的な勉強方法を掴みあぐねている。そろそろ独学では限界かと、時の政府主催の勉強会への参加も検討してみたものの、これまた彼女に相応しいコースが見当付かずにいた。審神者歴とすれば中堅どころだが、この部門に関しては、まだまだ学びたてのひよっこである。受講費も安くはないので、うっかり講義を選び間違えて求められる知識量を見誤るのは避けたいところだ。
そんなわけで、審神者は初心に立ち帰り、稲葉江に助言を求めることにした。
事情を話せば稲葉江は快諾し、本選びに付き合ってくれることになった。夕飯を済ませた後、図書室で落ち合う約束をしている。
百数振りを擁する本丸では、宴会場を開けない限りは全員が同時に食卓に着くのは難しい。そのため、食事の時間はまちまちだ。早々に夕食を食べ終えた彼女は、本でも読みながら彼を待っていようと、早いうちに図書室へと入っていた。
矢のように降り頻る雨が屋根を叩いている。遠くに聞こえるゴロゴロという音に、審神者は身を竦ませた。本棚の間で背表紙を眺めながら、稲葉江の到着を待つ。次第に大きくなる音に、彼女の背筋を冷や汗が伝った。
突如、ぴしゃりと一際大きな音がした。
審神者は驚き、場所に不相応な大きな叫び声を上げた。本を棚から抜き取ろうとしていた最中のことで、思わず飛び上がった体が本棚にぶつかって、いくつかの本がバサバサと床に落下した。
間もなくブツッという音が聞こえると同時に、図書室が真っ暗になる。停電だ。審神者は暗闇の中、落ちた本に囲まれながら、本棚の間で耳を押さえて蹲っていた。
彼女の耳の奥では、先ほど聞こえた落雷の音が繰り返し再生されていた。それに激しい鼓動音が重なって、頭の中が騒がしい。驚きと恐怖のあまり、身体の自由が効かなくなってしまっていた。
開けた場所に建てられた本丸は、雷雨への備えを十分に行なっている。屋内にいれば危険はないはずだが、それでも審神者は指一本動かせなかった。
この部屋を出れば、すぐにきっと誰かに会える。電気の復旧はまだしばらくかかるかもしれないが、夜目の利く短刀が見回りをしてくれていることだろう。冷静さを欠いた彼女は、そこまで考えが及ばず、ひとりきりでぶるぶると震えていた。
たった数分が永遠に感じるような時の中で、審神者は柔らかな光を感知した。床板を踏み締める足音と共に「そこにいるのか?」と声がする。審神者は喉から搾り出した情けのない声で「誰?」と尋ねた。
声の主は、審神者の返事を元に居場所を探り当てた。揺れる淡い光が近づき、恐る恐る審神者は顔を上げる。そこにいたのは稲葉江だ。光の正体は、彼が手にした非常用のランタンである。稲葉江は審神者を見つけると、ゆっくりと近付いて膝を着き、床にランタンを置いた。
「稲葉江だ、分かるな」
「い、いなば」
ガタガタ震える彼女とあたりに散らばった本を見て、稲葉江は状況を察したようだ。彼は一言「触れるぞ」と断りを入れ、審神者の背に手を添えた。
「遅くなった。詫びよう」
「…………っ」
じわりと手から伝わる体温が、強張った彼女の体を解きほぐす。日頃口数の少ない彼が、審神者を安心させようと、慣れない言葉をかけているのが分かった。穏やかで低い彼の声色が頼もしく、少しずつ恐怖による緊張が和らぐ。やがて全身の震えは少しずつ収まってゆき、審神者は顔を上げた。
「稲葉、ごめん……ありがとう。ちょっと落ち着いた」
指先はまだ上手く定まらず、血が通っていないかのように冷えきっている。それでも話ができる程度には、審神者は冷静さを取り戻した。
ランタンのほのかな灯りに照らされる彼女の姿をまじまじと眺め、稲葉江は眉間に皺を寄せた。審神者が何気なく膝に視線を落とすと、落下した本がぶつかったのだろう。肌にはいくつも打ち身の痕があった。
「その傷はどうした」
「多分、雷にびっくりして落としちゃった本がぶつかったの。ここら辺の本分厚いし、ハードカバーばっかりだから……いたたっ」
恐怖心に囚われ動揺していた内は気に留めていなかったものの、痛々しい傷を目にすると途端に痛みが込み上げてくる。暑さのために手足を露出していたものだから、より目立っていた。
「立てるか?」
稲葉江の問いに、審神者は腰を持ち上げようとしたが、上手く力が入らなかった。本棚に手をかけ体重を預けても尚、腕の傷が痛む一方で思うように動けそうにない。
「腰抜けちゃったかも……」
「……………」
己の情けなさを恥じて、審神者は乾いた笑いを浮かべた。いい歳して雷に驚いて腰を抜かすだなんて、稲葉江も呆れているだろうと彼を見上げると、稲葉江は何かを思案する素振りを見せていた。
「……仕方あるまい。我に掴まっていろ」
「えっ? えっ、えっ? ぎゃっ」
稲葉江の言葉を審神者が飲み込むより前に、背に添えられていた手が彼女の腰へと回った。稲葉江は審神者の上半身の重心を彼の肩に預けさせると、そのまま脚を支えて持ち上げた。
状況を読み込めないまま、思わず審神者は稲葉江の首に腕を回し、ぎゅっと力を込める。不安定な体勢といえど、厚く筋肉質な身体は危なげなく彼女を軽々と持ち上げた。小さい子供がされるような抱かれ方だ。稲葉江はランタンを片手に図書室の出入り口へと歩き出した。
「い、稲葉っ」
「少しの辛抱だ。手当てが遅れれば跡が残る」
「そ、そうじゃなくてっ」
緊急性を優先した稲葉江の耳に、審神者の抗議の声は届かない。廊下に出ると、一部の電気は復旧しており、ぽつりぽつりと明かりがついていた。
薄暗い廊下を運ばれながら、審神者は赤い頬を隠そうと彼の首筋に顔を埋め、目を瞑った。自分が見えていなければ外からも見えていないというわけでもないのに、こうする事で誰かに見られているかもしれない、という意識を逸らそうとしている。
稲葉江が彼女の身を案じてこのような手段を取ったに過ぎないことは十分理解していて、それでも審神者の心臓は、恐怖と別の鼓動を刻んでいる。視界を塞ぐと、歩行のたびに擦れる衣類や肌の感覚が、普段より鋭敏に感じられた。呼吸ひとつが具に伝わってしまう距離感に、審神者はぐっと息を呑む。心が落ち着きを取り戻す反面、体は熱を帯びていた。
稲葉江は照明の復旧した一室へと顔を出すと、「薬研藤四郎はいるか」と声をかけた。恐る恐る審神者が目を開くと、そこには停電に対応しようと数振りの刀が集まっている。複数の視線が、稲葉江に抱えられる審神者に注がれた。状況が状況であることと、比較的落ち着いた性格の刀剣男士が集まっていたため、茶化されなかったのが唯一の救いであった。
「どうした稲葉の旦那——って、大将! 探したんだぜ」
「手当てを頼みたい。打撲だ」
呼ばれて寄ってきた薬研藤四郎は、審神者の露わになった手足に出来た傷にすぐ気がつく。一瞬顔つきを険しくするも、すぐに「任せな。旦那、ついでに医務室まで大将を運んで貰えるか」と頼もしい声色で言って、荷物を手に廊下へと出た。
薬研藤四郎の後をついていく形で、審神者は医務室まで稲葉江に運ばれた。椅子にそっと座らされ、薬研藤四郎は手際良く鬱血した箇所を冷やし始める。
「あとは任せて構わんな」
「おう。助かったぜ」
自分の役目は終えたと、稲葉江は薬研藤四郎に彼女を預けた。審神者がちらりと稲葉江を見上げると、ぱちりと目が合う。
「我は図書室の後始末と他の場所の復旧へ行く。部屋に戻るなら人を呼べ」
「あっ……うん。ごめんね、稲葉、ありがとう」
図書室では落ちた本がそのままになっている。あのままにしておいては本が傷んでしまうと気にかかっていた審神者は、素直に彼の言葉に甘えることにした。審神者が礼を言うと、稲葉江は医務室を出て行った。
引き戸が閉まる音を聞いて、審神者は深く息を吐いた。時間にして一時間足らず。その中で起きた怒涛の展開を、彼女はいまだに飲み込めずにいた。
「それで、何があってあんなことになってたんだ」
応急処置を終えた薬研藤四郎が、好奇心を隠さぬ声色で問いかけた。治療の手間だけでなく心配をかけさせていることは間違いなかったので、隠し立てするわけにはいくまいと、審神者は羞恥を飲み込み口を開いた。
「う……じつはその、さっき雷落ちて停電したでしょ。私その時一人で図書室にいて、パニックになっちゃって」
「大将、雷苦手だったのか? 初耳だな」
「人といる時はそこまで怖くないんだ」
審神者は、薬研藤四郎に幼少期のトラウマを打ち明けた。
まだ年齢が二桁に達さぬ頃、自宅でひとり留守番をしていたときのことだ。今日と同じような激しい落雷により停電し、家中が真っ暗になってしまった。幼い彼女は復旧方法も知らず、両親が帰るまで暗闇の中心細い思いをしていた。どうやら似た状況に陥った事で、当時の恐怖を思い出し、体が動かなくなってしまったらしい。
「……その時に稲葉が来てくれたの。元々図書室で約束してたから、私がいることに気付いてくれて」
「なるほどなあ」
もし稲葉江との約束がなければ、審神者の発見は今よりずっと遅れていただろう。照明が消えて、彼らはまず主たる審神者の身の安全を確保するが、生活動線から離れた図書室の捜索は後回しになるはずだ。そうなれば、もっと長い時間ひとりきりで恐怖に震えていたことになる。
審神者は運が良かった、と改めて安堵し胸を撫で下ろした。
「本当に情けない、恥ずかしい……」
「まあよかったじゃねえか、すぐに見つけてもらえてな」
「それはそうなんだけど……」
冷静ではなかったせいで麻痺していた羞恥心が今になって込み上げて、彼女の内側を火照らせる。審神者は稲葉江に抱き抱えられていた瞬間を、五感ごと回想した。
肌が触れ合う感覚は未だ消えず、背を摩ってくれた優しい手つきが彼の気遣いごと心に張り付いて離れない。嗅ぎ慣れぬ香りがどうしてか彼女の不安を安らげるようで、同時に心を高揚させる。至近距離に近付いて初めて知った温もりや匂いが、稲葉江という男の存在をはっきりと縁取った。
ひとり頬を赤らめていると、審神者は薬研藤四郎がニヤニヤとした笑みを浮かべていることに気がついた。審神者ははっとし、口元を抑える。
「や、薬研。なに?」
「いや? 大将、怖い思いしたって割に随分嬉しそうな顔してんなぁと思ってな」
「しっ、してない!」
審神者は首をぶんぶんと激しく横に振り、薬研藤四郎の言葉を否定する。彼の大きな笑い声は、全くそれを取り合っていなかった。
まさか、稲葉江への想いを気取られてしまったのだろうか。審神者は赤面から一転、顔を青褪めさせる。
薬研藤四郎は刀剣男士の中でも特に頼れる存在だ。けれど彼女が刀に懸想をしていると知れば、どう感じるかはわからない。人と物、刀と主。誰もがその間の恋慕を好意的に受け止められるわけではないだろう。
しかしそんな杞憂を振り払うように、薬研藤四郎は大胆に笑った。
「心配すんな。俺はいつでも大将の味方だぜ」
「薬研……」
幼い容姿に見合わぬ頼もしさで、薬研藤四郎は胸を叩いた。彼の言葉の暖かさに、審神者は安堵から思わず涙ぐみそうになってしまう。
「~っ薬研!」
そんな涙は、彼のからかいの言葉であっという間に引っ込んでしまった。審神者が悶絶し真っ赤な顔でじたばたと足を揺らすのを、薬研藤四郎は微笑まし気に見ていた。
第三話
(サンプルは途中まで) 日中の残暑は厳しくも、朝晩は冷え込む季節となった。
本丸では懇親会と銘打った宴の準備が進められている。例年であれば夏場に暑気払いが開かれていたが、今年は都合が合わず先延ばしになっていた。それを催しのないこの時期にやってしまおう、というわけだ。
日頃交流のない刀剣男士同士の懇親を深めるため、席次はランダムとなっている。それは審神者も例外ではなく、当日、会場の前に張り出された座席表を見て彼女は「おや」と思った。
左隣に鶴丸国永、右隣に和泉守兼定。向かいには乱藤四郎、次郎太刀、御手杵が座っている。賑やかな宴になることは間違いなさそうだ。
飲兵衛の次郎太刀に酒癖の良くない和泉守兼定、宴好きの鶴丸国永に包囲されていることから、これは飲みすぎること必至だな、と審神者は覚悟した。彼女の対面に座る御手杵もクセモノで、うわばみの彼は相手にペースを合わせて飲む上に注ぎたがりなので、大酒飲みと食い合わせが悪い。乱藤四郎は酒宴で目立った印象はないが、彼らが何かしでかしたとてストッパーの役目は望めそうになかった。
実行委員の音頭によって乾杯し、酒宴が始まる。審神者の予想は、ぴたりと的中した。
普段から好き勝手飲んでいるだろうに、大規模な宴が久しくなかった反動か、次郎太刀の酒の進みがいつもより早い。幹事が用意したものだけでは足りないと、彼自身のお気に入りの酒も持ち込んでいたが、あっという間に空き瓶が並んだ。
調子のいい和泉守兼定も、次郎太刀の勢いに乗せられてグイグイと杯を煽る。最初から遠慮なしのハイペースだ。御手杵は次郎太刀おすすめの酒の味がお気に召したようで、水のように飲んでいた。
審神者の隣の鶴丸国永は顔を真っ赤にして、まさに鶴そのものだ。白皙の美少年のような顔に不釣り合いな、耽美のかけらもない豪快さで笑い転げていた。乱藤四郎は「これジュースみたいで美味しいっ」とかわいらしくほっぺを桃色に染め、アルコール度数の高い果実酒をロックで浴びるように飲んでいた。
「主、グラス空いてんぞぉ」
「うおっ! 悪ぃなぁ気づかなくて」
「いや大丈……多い多い多い、こぼれる!」
空っぽになったばかりの審神者のグラスに、御手杵が溢れんばかりにおかわりを注ぐ。彼の顔色は普段通りなので、酒に酔って手元がおぼつかないのか、ただ大雑把なだけなのか判別が付かない。
審神者もまた周りに合わせてしまう性質で、勧められるがままに酒を煽った。自制を試みるも、久々に無礼講で酒を飲み交わす楽しさには抗えず、会話の合間にグラスに口を付ける手を止められない。じわりじわりと理性を酒気に侵食されている事に気付かないまま、彼女は酒を飲み続けた。
それから二時間ほど経って尚、宴会の盛り上がりは衰えることはなかった。
その頃には、審神者の体には随分酒が回っていた。席は下世話な冗談で盛り上がり、笑いが絶えない。話の内容は理解できるものの、距離や音の感覚が少しずつ曖昧になる気配があった。
くらりとよろめいた拍子に、審神者の体は鶴丸国永にぶつかった。華奢に見えて存外しっかりとした彼の体が審神者を抱き留め、顔を覗き込む。
「君、大丈夫か? 顔真っ赤だぞ」
「だいじょうぶ……」
鶴丸国永に支えられた審神者は、遠慮なく彼に体重を預けた。その様子を見て、鶴丸国永は「さすがに飲ませすぎた」と自省する。和泉守兼定はだらしなく頬杖をついて、「もう潰れてんのかよ主ぃ、早くねぇか?」と呂律の怪しい口調で言った。
「酒が足りないんじゃないのー?」
「次郎太刀、ほどほどにしてやれって」
「ううーん……」
一応は本丸の長で、唯一の女である。普段は酔っ払って他人に迷惑をかけまいと自制している彼女だが、今日ばかりはすっかり場に飲まれ、立派な酔っ払いに仕上がっていた。
頭はまだ回る、身体がちょっと重くて眠い——とは本人の見解だが、実際は既に判断能力も格段に低下している。普段なら一定の距離を保つところを、遠慮なしに鶴丸国永に体重を預けているのがその証拠であった。
「あるじさん、お水飲んだほうがいいよ」
「飲む……」
「っうおぉ主っ、水こぼしてんぞ!」
乱藤四郎が対面から机に身を乗り出し、冷水を差し出す。審神者はそれを受け取ってグラスに口を付けたが、そのほとんどが彼女の口内に届くことなく胸元を濡らした。
見かねた和泉守兼定は「国広ォ! 手拭い持ってきてくれ!」と声を張り上げた。優秀な助手である堀川国広は「はい兼さん」と元気よく返事をすると、本人も酒宴を楽しんでいた最中にもかかわらず、すぐに拭くものを用意してテキパキと審神者の介抱を始める。しょっちゅう和泉守兼定の世話を焼いているだけあって、手慣れていた。
「主さん、もう休んだ方がいいかもしれないですね。こんなに飲ませたの誰ですか? 兼さん? 次郎さん? それとも鶴丸さん?」
「アタシじゃなーいっ! 御手杵、あんた注いでたでしょ!」
「俺? 俺かぁ」
「もー、主さんすぐ周りに流されて飲んじゃうんだから、気をつけてくださいよ。主さん、部屋まで送りましょうか?」
「ん……」
審神者が楽な姿勢を取れるよう、堀川国広は畳の上に座布団を敷いて横にならせてやった。濡れた衣類の水分を取り、体が冷えぬよう羽織をかけてやる。審神者は重い瞼を下ろし、今にも眠りに落ちてしまいそうだ。
すると、今度は御手杵が何かを見つけたと言わんばかりに目を輝かせた。
「おっ、ちょうどいい! おい、こっち来てくれ!」
手招きの先、彼が呼んだのは——空になった酒瓶を運んでいた稲葉江だ。
「手杵か、何の用だ」
「こっちこっち、主が潰れちまってさぁ。運んでやってくんねえ?」
その場に居合わせた刀剣男士たちは、一様に稲葉江の顔を見た。
それから、「えっ?」という様子で御手杵に視線を移す。稲葉江もまた「何故我が?」と訝し気な顔をしており、御手杵だけが当然のように審神者の介抱を彼に頼んでいた。
稲葉江は場の流れを汲み取ろうと、黙って彼女と同卓の面々と、明らかに和泉守兼定に呼び付けられたであろうの堀川国広の顔を順番に眺める。机の端に転がった酒瓶の数で、粗方経緯を把握することができた。
それぞれがそれぞれの思惑を持つこの状況で、次に動いたのは乱藤四郎である。少女のような容姿を持つ彼は、こういう気配に敏感であった。
「稲葉さん、いいの? 鶴さんがあるじさんのこと、お布団に連れてっちゃうかも!」
乱藤四郎はきゃぴるんと目をキラキラ輝かせて、わざとらしい声色で言う。稲葉江はその言葉に、ぴくりと動きを止めた。
突然名前を出された鶴丸国永は「おおっと?」と思ったが、どんな小さな驚きも逃さない彼の耳には、ある程度の本丸事情が入っている。彼もまた新たな驚きの気配を察知し、乱藤四郎の茶番に乗っかることにした。
「そうだなぁ、仕方ない。じゃあ俺が運んでやるか」
「なんだァ鶴さん、それなら最初から——」
「構わないだろう、稲葉江」
事情を知らない和泉守兼定の声を遮った鶴丸国永が、賑やかな場にそぐわぬ鋭さで空気を裂いた。
賑やかな宴に一瞬ぴりりと走った稲妻を、どれだけの刀が気取っただろうか。鶴丸国永の一言に、稲葉江が片眉をひくりと上げる。
時間にして数秒足らず、それでも数々の死戦を抜けて来た歴戦の猛者たちだ。言葉なく、指先一つ動かされぬまま行われたやりとりがただ事でないと理解し、彼らは黙ってそれを見守った。
稲葉江の鉛色の瞳が、審神者の火照った丸い頬に向けられる。渦中の彼女は暢気にもこの状況を知らぬまま、安らかに胸を上下させていた。
「……瓶を返してくる。暫し待て」
——静寂の後、先に白旗をあげたのは稲葉江だった。
鶴丸国永がぴゅうと口笛を吹いて茶化す。それにより、剣呑だった空気は一気に弛緩した。
稲葉江は空瓶を部屋の隅にやってから、すぐに審神者の元へと戻ってきた。かけられていた羽織を堀川国広に返すと、審神者は肌寒そうに身震いをする。くったりと横になったままの審神者の身体を稲葉江は揺さぶったが、起きる気配はなかった。
「目を覚ませ。自力で立てるか」
「んー……いなば……?」
「飲み過ぎだ。部屋へ戻れ」
「抱っこ……」
もはや自分が今どのような場で、誰に話しかけられているのかもわかっていないのだろう。審神者は舌足らずな幼児めいた口調で、両手を稲葉江に伸ばした。
日頃の彼女からは想像もつかない甘えた仕草に、稲葉江の眉間に皺が寄る。何かを振り払うような一拍を置いたのち、彼は「抱っこではない」とため息交じりに呟いた。
そのやり取りを見て、稲葉江の背後で噴き出したのは和泉守兼定である。ニヤニヤと下世話な笑みを隠さずふたりの様子を見守る彼の口を、堀川国広が塞いだ。
稲葉江は鶴丸国永の手を借りて、ぐでんぐでんになった審神者を背負った。ほとんど意識を手放した彼女は、なんの躊躇いもなくその身を稲葉江に委ねる。
稲葉江が審神者を担ぐのは、これが三度目だった。その身の軽さを感じるたび、稲葉江の胸に言葉にしがたい感情が沸き上がる。落とさぬようにと彼女の足に手を添えると、柔らかな太ももに稲葉江の指が沈んだ。
彼は一番人気のない出入り口を選んで、宴会場をそっと抜け出した。密やかな離席者は賑やかな宴に紛れ、悟られることはない。稲葉江が姿を消すと、残された面々は互いに言葉なく笑みを交わした。
あの堅物の稲葉江が、戦場を駆け天下を目指すこと以外眼中になさそうなあの男が、態々他の手を退けてまで審神者の介抱をしているわけである。これが、面白くないはずがなかった。
——見たかあの顔は! その上「抱っこ」だと!
先ほどのやり取りを見守った彼らは、言葉なく感情を共有し合った。
「いやぁ、驚きだなあ。稲葉江のあんな顔が見られるとは……」
「いい酒のつまみだねぇ〜っ」
「ボクたち、恋のキューピットだよねっ?」
探り合うような沈黙から一転、その場は湯が沸いたように一気に盛り上がる。男所帯で色恋沙汰には縁のない刀剣男士らは、最も身近なメロドラマに夢中であった。それぞれがやいのやいのと、先ほどの様子について口々に感想を言い合う。
「なぁ御手杵、なんでわざわざ稲葉呼んだんだよ」
「兼さん、そんなの野暮だよ! もしかして知らないの?」
「あぁ? なんだよ国広」
「でも確かに、すっごい勇気だよね。御手杵さん」
乱藤四郎のそんな一言をきっかけに、五振りの視線が御手杵に集まった。御手杵はマイペースに酒を手酌で注ぎながら、「ん?」と顔を上げる。すると、不思議そうに「あの二人って恋仲じゃないのか?」と、当然のことのように言い放った。
「なっ、そうなのか⁉︎」
「まだ気持ちは伝え合っていないみたいですけど……」
「ボクも甘酸っぱい関係なんだと思ってたな」
自然と声を潜めて顔を近づけ合った彼らは、互いの認識を擦り合わせた結果、ひとつの事実を悟った。
本丸の大半が周知している通り、審神者と稲葉江は明らかに互いを意識している。それに違いはないが、いわゆる相思相愛、公に恋人として認め合ったわけではなかった。
つまりは、「稲葉って主のこと好きなんだな、主も稲葉のこと好きっぽいし、そういうことか?」と短絡的に考え、関係性を誤解していた御手杵の——手柄であり、やらかしでもあった。
「もしかして俺、やっちまった?」
御手杵は突き刺さる驚嘆の視線を意に介さず、グラスを傾けながらあっけらかんと言った。
第六話
(前略)
晩酌の後始末をしてくれている稲葉江を差し置いて、審神者はごろんと布団の上に横たわった。ぱりっとした旅館特有の布団の感覚が心地よく、審神者はそのまま意識を手放してしまいたくなる。
「灯を消すぞ」
「うん……」
うつ伏せになって目を閉じていると、すぐそばに稲葉江も腰を下ろした気配がした。審神者が首を捻って彼の存在を感じる方を向くと、暗い部屋の中、常夜灯のほのかな光が稲葉江のシルエットを映し出す。審神者は稲葉江の胡坐をかいた膝の上に手を置いた。
「……稲葉、私ちゃんとまだ起きてるよ」
「ああ」
それだけで、合図は十分だった。
審神者が仰向けに寝返りを打つと同時に、稲葉江は彼女の頭の横に手を着いた。暗闇の中でも、間近で見つめ合えば表情は十分読み取れる。審神者は「稲葉もちょっと酔ってるのかな」と思って、それからすぐに唇が触れ合った。
視界からの情報が限られている分、他の感覚が鋭敏になっていた。触れ合う体温、すぐそばにある彼の香り、衣擦れと粘膜が触れ合う音、腕を回した背中のごつごつとした筋肉の感触。それから、唇と舌の熱さ。
こちらが感じ取れるということは相手にも伝わっているはずだ。いつもよりずっと速い鼓動は、稲葉江にも聞こえているのだろう。
「ふふっ」
「何が可笑しい」
「んーん、お酒の味するなって……」
「それはお互い様だ」
「んふふ、そう、んッ……」
唇をやわく喰まれ、舌を絡める。味を感知する以外の機能がある事を、審神者は稲葉江に教え込まれた。
いつまでも味わっていたくなる程の心地よさに揺蕩っていると、稲葉江の手が彼女の帯に伸びた。不慣れな彼女の不格好な結び目はあっという間に解かれて、浴衣の前が開かれる。下着と肌が露わになり、審神者は思わず彼から顔を背けた。
打刀に分類される稲葉江は、短刀や脇差ほど夜目は効かずとも、少なくとも彼女よりはよく見えているはずだ。異性に自ら肌を晒したのは初めてで、じわりと汗が滲む。緊張から審神者の手が小さく拳を作った。
「ひゃっ!?」
徐に、稲葉江の指先がヘソの周りを撫でた。審神者はくすぐったさに、びくっと体を跳ねさせる。皮膚の表面だけを撫で上げる力加減がこそばゆくて、審神者は耐え切れず笑い声を漏らした。
「っ、いなば、やめっ……ひゃっ、ふふ、くすぐったい!」
手はへそから脇腹へと移り、くびれのふちを撫で上げられ、審神者は声をあげて身を捩った。稲葉江はくすぐりあいっこなんて子供染みた遊びをするような性分ではなく、今だってそんなタイミングでもないはずだ。肌を見られることへの緊張は解きほぐされ、次第に審神者はいつもの調子に戻っていた。
審神者が褥に相応しくない声で笑っていると、不意に稲葉江の手が身動ぎで浮いた彼女の背中に差し込まれる。「外すぞ」と囁かれ、審神者はぴたりと声を止めた。
無言を了承と取ったのか、今更彼女の返事を待つ気はなかったのか。稲葉江はホックを外して、下着を押し上げた。
胸元を隠すものがなくなって、審神者は再び静かになった。稲葉江の顔が肌に寄ったので、口元を手で覆う。稲葉江が胸元に吸い付いて、あられもない声を上げてしまいそうになったところを押し留めた。
鎖骨の下から柔らかな膨らみを唇で撫で、彼の手が柔らかい肉を寄せあげた。胸を揉まれること自体への快感は強くないものの、稲葉江にそうされているという事実が彼女の羞恥心を煽る。やがて先端を喰まれ、熱い口内に先を迎えられる感覚に息を呑んだ。
「っ……、ん、」
元より口数の少ない男だが、褥での稲葉江は殊更静かだった。彼に触れられて、ひとりだけ感じ入ってしまって、これまで直視したことのなかった自分の中の女の一面を突きつけられている。
「っはぁ、……ッ、ん」
熱い吐息が肌にかかるだけで、身が強張った。先端が硬くなるとよりそこが敏感になった気がして、審神者は手の甲を噛む。
「声を抑えるな」
「っ……!」
必死に漏れ出そうになる嬌声を殺していると、先を舐め上げる合間に稲葉江はそう呟いた。すぐに舌のざらざらが尖った場所を撫でたので、返事は出来なかった。
「何のために離れの部屋を取ったと思っている」
「……変な声出るの、恥ずかしい」
「聞かせろ」
「…………」
「どうしても、と言うならば耐えられなくするまでだが」
「っひぅ……⁉︎」
胸の先端を微かに掻かれ、抑えきれなかった声が漏れた。それに気を良くした稲葉江が、彼女のより感じやすい場所を探る。強くされるよりは微弱な刺激を小刻みに与えるほうが良いらしい、ということを察した稲葉江からの責苦を受け、審神者は声を堪えられなくなっていた。
「あっ、あ、っ……、ん、ッ……、ッ……!」
「……………」
稲葉江にこうして触れられることを自ら望んだ彼女だが、いざ実際に触れられるとなると逃げ出してしまいたくなるほどの羞恥に襲われた。彼の欲望を受け止めたいという覚悟は固めていたものの、自分の淫らな姿を晒すことへの備えが出来ていなかったのだと彼女は気付く。
審神者が自分の身体に舌を這わせる稲葉江の顔をちらりと見ると、見たことのない表情をした彼と目が合った。直線的なまつ毛が飾られた欲望の滲んだ熱い視線は、審神者に向けられると同時に彼女を案じるように和らいで、その表情の変化に審神者は胸を高鳴らせる。己の身体で稲葉江が興奮していること、そして今も変わらず優しい彼であるということをその瞬間感じ取り、愛おしさが溢れた。
「どうした」
「ん、……わ、私ばっかり、恥ずかしいなって」
「…………」
自分ばかり良くされることが憚られての言葉だが、稲葉江はそう捉えなかったらしい。彼は何かを思案する素振りで視線を逸らし、上体を持ち上げると浴衣を肩から落とした。
薄闇の中、稲葉江の鍛え上げられた身体が露わになり、審神者はつい視線が釘付けになる。普段から筋肉質な肉体を隠さぬ装束を身に纏う彼だが、布一枚あるのとないのでは大違いだ。白い肌に落ちた凹凸の影が逞しく、戦う為に生まれた身体を体現していた。
「これで良いか」
「あっ、うん……。んッ……」
彼の身体に見惚れた審神者の意識を行為に引き戻すように、稲葉江は審神者に口付ける。重なった上体は、一枚隔てた布がなくなったことにより肌同士が熱を伝え、ぴたりと吸い付き合った。
「んぅ、ん、……っ、はッ、……ぅ」
「……、っ」
「ふ……ッ、う……!」
深く舌を絡めて求め合いながら、審神者は稲葉江の背中に腕を回す。敏感な場所に触れられるのとは違った快感がじわりと内側の温度を高めて、癖になりそうなほどに心地よい。それは稲葉江もまた同じようで、呼吸すら惜しむほどにふたりは口付けに夢中になった。
「あ、ッ……」
口付けの合間に、稲葉江の手が審神者の腰を撫でた。その手は尻へと回り丸みを確かめるように触れたあと、太ももをなぞって内腿へと至る。鼠蹊部に指が触れ、審神者はきゅっと内腿の筋肉に力を込めた。
下着の淵を彷徨っていた指先がゴムの下に滑り込む。審神者が少しだけ腰を浮かせれば、それを了承と取った稲葉江が下着を脱がせた。
ついに己の身を守るものが何もなくなって、審神者は稲葉江から顔を逸らし視界を腕で塞ぐ。肌同士が離れた感覚から稲葉江が身体を起こしたことがわかって、密着していた部分がひやりとした。
「……感じやすいのか」
「ッ……」
稲葉江が何を見てそう言ったのか察しがついてしまって、審神者の肌が熱くなる。彼女は顔を腕で覆ったまま、いじけた子供のように首を横に振った。
「わ、わかんない。そんなの知るわけないじゃん……」
「そうだな、野暮だった」
「ッッッ……!」
クチ、と粘液の音が立つ。濡れそぼった陰部を指で掠めただけで審神者の身体はびくりと震えた。熱を持った恥丘を焦らすように撫でているだけで、稲葉江の指にまとわりついた愛液が塗り広げられ、その上溢れていくのが彼女にも分かる。
「あっ、ッ……、ふ」
雛尖を刺激されると、鼻を抜けるような声が出た。傷つけないようにと慎重な動きが却ってもどかしく、審神者は全身を強張らせ、恥部への愛撫に身を捩る。
時折様子を探るような稲葉江の視線とかち合うと居た堪れず、瞼をぎゅっと閉じると生理的な涙が溢れた。極度の羞恥と緊張で、どうにかなってしまいそうだった。
稲葉江の指が一本、膣内に滑り込む。まだ狭いそこは侵入を阻んだが、丁寧に時間をかければ少しずつ飲み込んだ。明確にこれから稲葉江を受け入れる場所を自覚して、審神者の喉が鳴る。稲葉江は「痛むか」と訊ねたが、審神者は首を横に振るのが精一杯だった。
「虚勢は不要だ」
「ほ、ほんとにいたくない」
初物の彼女を気遣って、稲葉江は無理に先を暴くことをせず、時間をかけて彼女の身体を解した。そのおかげで身体的な苦痛はないに等しいが、未知の快楽を受け入れる心の準備が整っていなかった。
「いたくはないんだけど」
布団に皺を作り瞳を不安げに揺らす審神者を見下ろし、稲葉江は何かを考え込むように瞳を僅かに左右させた。
すると稲葉江は彼女の背に腕を回し、仰向けだった審神者の身体を起こした。ゆるく胡座をかいた膝の間に座らせ背後から彼女を抱きしめる姿勢になり、顔の位置がぐっと近づく。組み敷かれるのではなく自分からも容易に手を伸ばせる距離に、審神者は少しだけほっとした。稲葉江の胸板に背を預けると、彼の肌も汗ばんでいることが分かった。
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