ドラマチック・ライラック
ドラマチック・ライラック
- 雨さに
- A5
- 40P
物の心を励起する力を失いかけた主を救うため、主が審神者になる前の時代へ五月雨江が行く話です。審神者←五月雨江←過去の審神者です。
特例任務
外は豪雨だ。矢のように降り頻る雨が屋根を叩き、風が木々を揺らす音が騒がしい。日を厚い雲に隠された曇天のせいで部屋の中も薄暗く、湿気から空気も生ぬるい。本日、本丸の執務室は決して過ごしやすい環境とはいえなかった。
「こういう時のために時の政府の刀剣男士がいるんじゃないの?」
「今回はワケアリなんですよ」
審神者が眉を顰めたのは、じっとりと肌に張り付く汗を吸った衣類にではなかった。相対するのは管狐。テーブルの上、存在を忘れ去られたグラスの中の氷が解けて、からんと場違いに清涼感のある音が響いた。
審神者の少し後ろに控え、大人しくお座りをした五月雨江は、その様子を黙って眺めていた。
日頃温厚な彼女がこうも声を荒げるのは非常に珍しいことで、五月雨江は表情を変えないまでもその姿に驚く。状況が違えば、彼は彼女の怒りの源を取り除こうと働きかけただろうが、今回ばかりはそうはいかない。その対象は、自分自身——五月雨江に関わることであった。
「私に言えないような任務って、何をさせるつもりなの。どうしてうちの五月雨なの」
「ですから、それをお話しすると任務に差し障りが……」
長い間、同じことを何度も何度も審神者と管狐は言い争っている。事の発端は、管狐が普段とは異なる特別な任務を、極秘と勿体ぶって持ってきたことだった。
通常、与えられた任務に対し、どの刀剣男士を部隊に編制し出陣させるかを決めるのが審神者の仕事だ。けれど今回に限って、政府側から直接、刀剣男士の指名があった。彼女の五月雨江一振りをこの任務に向かわせよ、とのお達しである。
時代や土地、関与するであろう人物に合わせ、それらと所縁ある刀剣男士の編成を推奨されることはあれど、一個体を指定されるなど、これまで例にも聞いたことがない。その上、任務の内容は審神者にすら伏せられ、現地に到着するまでは刀剣男士本人にも明かせないというのだ。審神者は益々不信感を持った。
刀剣男士への扱い方は審神者によって異なるが、この本丸の彼女は家族同然に愛情を持って接している。どこで何をするかすらわからない任務に自身の刀剣男士を向かわせよと言われれば、本丸の長として反発したくなるのも当然のことだ。
詳細な内容は現地へ向かう道すがら、管狐が五月雨江に直接伝えるという。頑なに頷こうとしない審神者に管狐は手を焼いたが、それでも任務の内容は些とも漏らしはしなかった。
ふたりの押し問答をしばらく眺めた五月雨江が、膠着した空気を割るように挙手する。審神者と管狐、二対の視線が彼に集まった。
「頭、私は構いません。巡り巡って頭のためになるのであれば、どのような任務でもこなします」
「五月雨!」
「では該当刀剣男士の了承が取れましたので、任務を受諾頂いたとのことで進めさせていただきますね」
「ちょ、ちょっと! 私はいいって言ってない!」
こんのすけはこれ幸いと五月雨江の言葉に乗っかって、勝手に話を切り上げてあっという間に姿を消した。固より審神者の返答など求めていなかったと言わんばかりのその速さに、立ち上がった審神者は怒りのやり場を失う。拳は固く握られており、五月雨江は声をかけるべきか迷った。
彼女は冷静さを取り戻そうと目を瞑って深く息を吐く。それから、静かに五月雨江へ視線をやった。彼女の眉は垂れ下がり、不安げに瞳が揺れていた。
「……本当に大丈夫なの」
「私の身を案じてくださっているのですか」
「当たり前でしょ。どこで何させられるかわかんないのに……。任務が危険なのは今に始まったことじゃないけど、それでもこんな無責任なことできない」
審神者は再び座布団に腰を下ろし、こめかみを抑えた。その表情には苦悩が見えるが、半ば諦めてもいるのだろう。時の政府のいざという時の強引さを、彼女は身を以て知っている。
一方五月雨江はといえば、自身のために怒りを露にする主人を目の当たりにし、ひっそりと喜びを感じていた。ただの鋼の塊だった頃はもちろん、人の身を得た今でも大切にされるというのは嬉しいものだ。
忠義に厚い彼としては、政府の都合であろうとも自分にしかできない任務が与えられたと思うと誇らしかったし、武功を立てれば評価されるのは五月雨江ではなく審神者だ。そうして成し遂げた後、彼女からの褒美を貰えるというならば、詳細が秘匿された得体の知れない任務に挑むことに躊躇いはなかった。彼女がただ一言、信頼を以て命じてくれれば、五月雨江は幾千里だって駆けて行けた。
「危険な任務なのですか」
「わからない。一応戦闘任務じゃなくて監視と調査が目的らしいの。でも時代も対象も明かせないって……」
「なるほど、隠密行動は私の得意とするところ。お任せください」
この本丸が選ばれた理由は定かではないが、その任務内容なら五月雨江が指名されたことに疑問はなかった。密偵は短刀や脇差が向いているものの、彼らは見目が幼い。場所や環境によってはその容姿が不利に働くこともあるのだろう。五月雨江はそんな予想を立て、合点がいった。
「五月雨はさ、……怖くないの? 嫌じゃない?」
浮かない表情のまま、彼女の言葉は五月雨江から弱音を引き出そうとしていた。憂う瞳はこんな時も美しく、自分の姿がその曲面に映っているのだと考えるだけで五月雨江の胸の内側は高揚する。
いくつも美しい言葉と景色を知る彼だが、これより美しいものを他に知らない。いつまでも見つめていたくなるその水晶玉のような瞳から視線を外し、五月雨江は首を横に振った。
「私の身を案じてくださるのはとても嬉しいことです。ですが、私は戦うためにこの身を得ました」
「そう、だけど……」
「頭が私の武運を祈ってくださるだけで、私はどこへでも駆けて行けます」
審神者の顔色は依然として思わしくない。五月雨江がやや頭を下げて瞼を伏せると、審神者はそうするのが当然のように五月雨江の頭に手を伸ばす。犬の気質が強いのか、この本丸の五月雨江は審神者に撫でられるのが好きだった。
刀として魂を得た以上、肉を断つ以上の快楽はないと信じて疑わなかったが、彼女との触れ合いはそれをも上回る幸福感を五月雨江にもたらした。何かを成し遂げた時、彼女が暇を持て余している時、そして直々に任務を命じられた時。五月雨江は習慣のように、彼女に頭を撫でてくれと強請った。
元は刀の付喪神とはいえ、五月雨江は成人男性らしい容姿をしている。犬猫や幼児にするような触れ方を、審神者は最初こそ躊躇った。しかし、五月雨江がまるで正当な要求であるかのような顔つきで彼女の手を待つうち、それが彼女の瞳に可愛げとして映ったのか、今となってはその要望に応えることに慣れてしまっていた。
薄紫の髪は光を受けるとキラキラと宝石のように輝くが、暗がりでも花のように上品な色をしている。手触りのよい毛束が審神者の指を滑り、五月雨江はその頭皮を擽る控えめな動きを堪能した。
「私の身を案じてくださるのであれば、任務を完遂した暁には褒美をいただきたいです」
「それはもちろん。何がいいか考えておいて。……絶対に無事に帰ってきてね」
「必ずや、頭の元へ戻ってまいります」
五月雨江の出立の日まで審神者は始終落ち着かない様子であったが、それでも最後には彼を手厚く見送った。刀剣守りを五月雨江の手に握らせ、祈るように五月雨江の手を小さな手で包み、額を寄せる。それだけで五月雨江は、内側から力が漲るようだった。
こうして五月雨江は管狐と主に本丸を立ち、行方も目的も知れぬ任務へと身を投じることとなった。
五月雨江単騎特例任務
一
管狐によって連れられた時代は二〇XX年、審神者が本丸へと住まいを移すよりずっと前の年だった。
深夜、人通りのない空き地に転移した一振りと一匹は周囲を見渡す。そこは住宅街の一角のようで、近隣住民は皆眠りに就いているのか、辺りは静まり返っている。五月雨江は声を抑えて、管狐に訊ねた。
「それで、任務の内容は」
「五月雨江殿は審神者殿が物の心を呼び起こす力に目覚めた経緯をご存じですか?」
「……いいえ、存じておりません」
時間遡行軍が関与しようとする歴史とは、後の世に史実として残る大きな戦や事件、偉人の人生が主だ。それが戦のない時代に転送された以上、日頃の任務と様子が違うのは明らかだった。この機に審神者の名前を聞くことになるとは思わず、五月雨江は驚いて片眉を僅かに上げる。
「この任務は審神者殿に関わることなのです。ですから、この本丸の五月雨江殿が選ばれました」
「……私が」
「ええ、あなたが適任だと判断されました」
管狐の口調は勿体ぶるようでありながら、どこから話すべきか思案する様子にも見えた。どうやら事態は思いのほか複雑であるらしい。
五月雨江としても、こと厚く慕う彼女のこととなると話が変わってくる。五月雨江は思わず身を乗り出すように管狐の話に耳を傾けた。
——審神者の持つ〝物を呼び起こす能力〟は、誰もが持って生まれるわけではない。審神者同士の間に生まれた子はその力を引き継ぎやすいと言われているが、その実例はあまりに少なく、倫理的観点から検証することも難しい。
血縁者が全員その力を持って生まれる家系もあれば、突然変異のように力を持たない家系から強い力を持つ者が現れることもある。要は結局のところ運次第で、この戦いが始まった当初、時の政府は歴史修正主義者に対抗するための力を持つ者を血眼になって探した。
そうして戦いが長引くうちに判明したのが、生まれつきその力を持たずとも何かの拍子に目覚める事例が存在する、ということだった。
五月雨江の主もそのうちの一人である。彼女は一般家庭のごく平凡な出自で、産声を上げたときは力を持たぬただの赤子だった。それが、ある瞬間に審神者となる素質を手に入れたのだと管狐は語る。
「審神者殿はこの時代で、時間遡行軍と接触しました。その際に霊力にあてられたのか危機回避のために眠っていた力が開花したのか——詳しい理由は不明ですが、とにかく、それがきっかけで審神者殿はその力を手にしたのです」
歴史修正のことも時間遡行軍のことも、それどころか刀剣男士——五月雨江らのことも知らない、今はまだただの少女である彼女が、この静かな町で眠っている。その姿を想像し頭に思い描くと、五月雨江の心臓はどくんと大きく脈打った。
「ですが先日、別の本丸の刀剣男士がこの時代で全く別の任務にあたっていた際に、その時間遡行軍を討伐してしまいました」
「……つまり、このままでは頭は私たちを——物の心を励起する力に目覚めない、と」
「その通りです」
この時代の審神者はまだその能力に目覚めていない。きっかけとなる時間遡行軍が討伐された以上、このままではその機会を失い、二二〇五年から観測した歴史が変化するという。そうすればどうなるか? ——今現在本丸にいる審神者は、その力を失うことになるだろう。
管狐から事態の詳細を聞いた五月雨江は、体すべてが凍り付いたような心地がした。
あの柔らかな微笑みがこちらに向けられることのない世界。それどころか、歴史ごと変わってしまえば彼女は審神者となることなく、この五月雨江は肉体を得ることすら叶わない。自由に動く手足も、好きに句を詠む唇も、美しい景色と季語を眺める瞳も。最初からなかったことになってしまうという。
「審神者殿が審神者でなくなるだけ、ならまだいいのですが、最悪の場合審神者殿の本丸が討伐した時間遡行軍が倒されなかったことになるかもしれません。そうなると、より大きな影響が考えられます」
「なぜそれを頭には知らせなかったのです」
「審神者殿は時間遡行軍に襲撃された時の記憶がありません。その——衝撃が大きかったのでしょう。まだお若い頃でしたから」
この時代の、まだ幼い少女である審神者が時間遡行軍に襲われ、恐怖し、逃げ惑う姿を想像するだけで五月雨江は心が痛んだ。
今でこそ見慣れているだろうが、時間遡行軍の異形は、平和な時代に生まれ育った少女の目に映るにはあまりに醜い。恐怖と混乱のあまり、心を守るためにその記憶を忘れ去ってしまうのは無理もない。むしろ、その方がきっと幸福に生きていけるはずである。
その記憶を無理に掘り起こした場合、既に歴史に手が加えられた以上、齟齬を認識した瞬間に彼女の力が失われる可能性がある。それを危惧して、政府は彼女にその実態を知らせぬまま、事態を収束させたいと考えていた。
「それでは、頭を意図的に時間遡行軍に襲わせろと?」
五月雨江の声色と視線が鋭くなる。非常事態とはいえ、分かっていて主人を危険に晒すことには賛同できなかった。全ての厄災から彼女を守ると彼は誓いを立てている。彼女の身に及ぶ危害を見過ごすことはできなかった。
しかし五月雨江の心配は杞憂であったらしい。管狐は首を横に振ってそれを否定した。
「再び襲われたからといって力に目覚めるとは限りません。時間遡行軍との接触がきっかけであることは間違いないのですが、詳細な決め手までは分かりかねますので」
「では、私に何をしろと」
「きっかけとなった時間遡行軍が討伐されてしまった以上、なんとかして審神者殿に力を発現させなくてはなりません。あなたには、何とかして審神者になる前のあの方を力に目覚めさせて欲しいのです」
——力を目覚めさせる。
手の内を全てを明かしてはいないだろうが、管狐の口ぶりから時の政府が物の心を励起する力を得るための条件を掴みかねているというのは間違いなさそうだ。でなければ、五月雨江に協力を煽るとは非常に考え難い。彼は審神者の呼び声に応え力を貸している分霊のうちのひとつにすぎず、長きに渡り歴史修正主義者と争ってきた時の政府ですら知らない審神者の生み出し方を握っているはずがなかった。彼らにとってもこれは苦肉の策なのだろう。
「そのようなことが可能なのですか」
「事実、刀剣男士との接触により物の心を励起する力を得た者もいます。何の素質も生まれ持たなかった子供が本丸で過ごすうちに審神者の素質を持ったという事例も確認されていますので。刀剣男士との接触で、何らかの反応が起こるのではないかと政府は期待しています」
つまりは、「お手上げだから何とかしてくれ」ということである。無理難題もいいところだ。原因不明ながら、責任をすべて彼に押し付けようというのだ。
しかし、五月雨江にはそれを投げ出すという選択肢が存在しなかった。そうすれば、自身の存在が危ぶまれる。文字通り命がけの任務だった。五月雨江の身ひとつだけならまだしも、本丸の仲間だけでなく主人の命運までもが彼にかかっていた。
「最後に一つ尋ねたいのですが」
「はい、なんでしょう」
「……なぜ、私なのですか」
管狐を五月雨江が睨みつけた。点滅した街灯がその場を物騒に彩る。割れたガラスや砂利が転がる空き地で、五月雨江は靴底が擦れる音ひとつ立てなかった。夜半の冷えた空気は糸のように張り詰め、それは五月雨江の視線のように鋭い。
「審神者殿が力を失うことを最も恐れているから、でしょうか」
管狐の返答は簡潔であり、五月雨江にとっては予想外のものだった。彼はその先の言葉を失って、口元を隠すように首巻を持ち上げる。管狐は質問は終いだと判断したのか、「任務については以上です。また質問があればいつでもお呼びください」と言い残し、ひらりと姿を消した。
たった一振り空き地に取り残された五月雨江は、そっと懐に手を当てる。上着の内ポケットには、出立前に審神者から受け取ったお守りが大事に仕舞われていた。そこに触れると、まるで熱を持っているように錯覚する。彼女の霊力が通っている証だ。
「……頭が、」
最悪の結末を想像しただけで、五月雨江は全身の皮膚が泡立つような恐怖に襲われた。そんなことはあってはならないと、その震えによって己の覚悟を奮い立たせる。
そうすれば、むしろこの任務に差し向けられたのが自分であることが僥倖だとさえ思った。こんのすけの迂遠な言い回しを理解することこそが、五月雨江の思いのすべてであった。
彼は、審神者に懸想している。主君として慕うばかりでなく、一人の男として。彼女を恋い慕っていた。
主従の関係を覆すつもりはない。ただ、審神者が人の定められた命を穏やかに終えるまで、そっと見守りたいと思っていた。その間、どこぞの男と結ばれようと構わない。——構わないと、思うことにしている。今は。
それが彼女の幸せなら、受け入れる。どんな厄災からも彼女を守り、たとえ一方的であろうと愛し抜くことが出来ればそれでいい。ただ、いつまでも笑顔を傍で見ていられたら。その美しい瞳にいつまでも自分が映っていれば、それが至上の幸せだと思える。そこまでの覚悟を五月雨江は固めていた。
そんな五月雨江の想いを時の政府がどこまで見抜いたのか、定かではない。ただ審神者の宿命を担う任務に五月雨江を指名した彼らの見立てに誤りはなかった、ということだ。五月雨江と審神者の縁が今まさに断たれようとしているなら、それを阻止するのに適任は己しかいない。彼は胸を張ってそう言えるほどの自信があった。
五月雨江はまず、当時の審神者——まだ何の力も持たない、いずれ五月雨江が思いを寄せることになる少女を探した。
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